物語前歴史年表&陸海統合参謀本部シュミレーション

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米国 戦争直前までの 日本への排斥行為

1924年 排日移民法
1932年 オタワ会議(英連邦の経済会議)による経済のブロック化
1939年 日米通商航海条約通告
1940年(昭和15年)1月 日米通商航海条約失効
1940年(昭和15年)6月 特殊工作機械等の対日輸出の許可制
1940年(昭和15年)7月 国防強化促進法成立(大統領の輸出品目選定権限)
1940年(昭和15年)7月26日 鉄と日本鉄鋼輸出切削油輸出管理法成立
1940年(昭和15年)8月 石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)、航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出許可制
1940年(昭和15年)同8月 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸
1940年(昭和15年)9月 屑鉄の全面禁輸
1940年(昭和15年)12月 航空機潤滑油製造装置ほか15品目の輸出許可制
1941年(昭和16年)6月 石油の輸出許可制
1941年(昭和16年)7月 日本の在米資産凍結令
1941年(昭和16年)8月 石油の対日全面禁輸

▲ 広田弘穀 内閣(1936年3月9日-1937年2月2日)

既に軍は無視できない!(2/26事件以降)
軍の要求を受け入れる 軍部大臣現役武官制 復活(陸軍大臣や海軍大臣は現役の軍人)軍が内閣をコントロール出来る事になる 帝国国防方針の改定 国策の基準決定
大陸 中国に進出しつつ南方(東南アジアに徐々に進出)新しい指針
仏領インドシナ 英領インド 蘭領インドネシア 米領フィリピン
日独防共協定締結 ドイツとの提携強化
ソ連社会主義国家警戒
軍部拡大に対しての賛成 反対の板挟み 広田内閣総辞職

▲ 林銑十郎内閣(1937年2月2日-1937年6月4日) 

陸軍の操り人形 軍と財閥の中を調整しようとして短命

▲ 近衛文麿内閣 (1937年6月4日-1939年1月5日)

日中戦争 
盧溝橋事件(北京郊外日中両軍が衝突→全面戦争へ)〔柳条湖事件は満州事変〕
中国では対立していた国民党共産党が協力 抗日民族統一戦線
首都中華民国 南京 を瞬く間に占領 (南京虐殺事件)重慶に首都を映して抵抗
日本の要求 敗戦を認めろ!賠償金を払え 中国は拒否

第一次近衛声明 近衛声明 「 国民党を相手にせず 」中国は今後敗戦を認めても 相手にしない!徹底的に潰す!日本は今後攻撃を止めない!
第二次近衛声明 「 この戦争の目的は大東亜共栄圏を造ることに有る 」日満中のブロック経済を造る。

国家総動員法
政府は議会の承認なしに物資や労働力を動員できる。
三国防共協定 対社会主義陣営として結束を高めていく、提携強化 
社会主義陣営仮想敵


満州事変 → 日中戦争 → 太平洋戦争 
欧州戦線 始まる

▲ 平沼麒一郎内閣(1939年1月5日-1939年8月30日)


ノモンハン事件(ハルハ河戦争)蘇連との軍事衝突 満州国とソ連との国境が被る部分が在る。ソ連が主張する国境と日本の主張する国境が被りが 日ソ戦車戦で日本は完敗 独蘇不可侵条約締結 欧州の天地は複雑怪奇なり 平沼内閣総辞職 国民徴用令(国民を軍需工場などに動員できる)

▲ 阿部信行内閣(1939年8月30日-1940年1月16日)


第二次世界大戦始まり ドイツ ソ連 ポーランドに侵攻 ポーランド分割
英仏は独に宣戦 第二次世界大戦勃発 安倍内閣は不介入の方針 陸軍の支持失い総辞職 
陸軍は日独と軍事同盟 第二次世界大戦へ
価格統制 物価の高騰を抑える お札を沢山印刷するからインフレが起こる

◆ 西條英樹内閣(1940年1月16日-1946年10月10日)

大本営 から 総理大臣 陸軍参謀総長 陸軍大臣 兼任

物語 時系列戦況



此処から戦況は、物語と史実に違いが発生爲始める


1940.05.24.
フランス ダンケルク海岸に包囲した英仏軍への攻撃に 最新毒ガス弾などの 最新化学兵器を 戦費削減の為に 鹵獲兵器を増やすために、連合軍への恐怖を煽るために使用を始める


1940,05,25
ダンケルクで包囲された英仏軍を救出作戦開始。 既に最新毒ガス弾 最新マスタードガス弾によって、4.5万人の死傷者が出ている。 英仏側は? 居残り兵士30万人を抜いた270万人の救出を急ぐ!!ドーヴァー海峡では、航空機同士の空中戦と 輸送船への攻撃が行われる。


1940.5.27
ダンケルクに集合している 英仏兵27万人の救出作戦始まる 大方の英仏兵士は化学兵器の影響を受けていると考えられていた。



様々な貨物船、漁船、遊覧船および王立救命艇協会の救命艇など、民間の船が緊急徴用され、兵を浜から沖で待つ大型船(主に大型の駆逐艦)へ運んだ。この“小さな船たちの奇跡”はイギリス国民の心に深く刻まれ、大いに士気を高揚することとなったが、実際には兵の70%程度は港の防波堤から56隻の駆逐艦その他民間大型船に乗り込み撤退していた。

英国側の試算では? 独軍の撤退阻止攻撃を受け、救出できるのは?・2,5000人程度と考えられていて、絶望的な撤退作戦であったが? 濃い霧にも助けられ、動ける兵士の粗全員 約30万人の救出に成功

貨物船、漁船、遊覧船および王立救命艇協会の救命艇など、民間の船

独英空軍の空中戦が行われ 
損失 独側 132機 英側 474機 

艦艇損失 独 海軍 空軍 による
英 駆逐艦6隻 
仏 駆逐艦3隻




1940.5.28
ベルギー降伏 
フランス軍 フランドル地方を放棄 1940年5月28日までに。フランス兵50万人が撤退


1940.5.29
夕方 ドイツ空軍の化学兵器を含む爆撃が行われた。ダンケルク港の機能を停止させる。 
4,7000人の英兵救出 

1940.5.30
英仏兵 5,4000人救出

1940.5.31
英仏兵 6,8000人救出  
英仏兵 4,0000人以上が化学兵器により死傷し動けずに救出できず。(史実は捕虜となる)
救出の為に用意された 船舶 200隻以上撃沈 200隻以上が損傷。

1940.6.12
独軍 パリ無血入城

大東亜戦争 第一シュミレーション(史実)戦闘年表  勃発以前



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1855.2.7  日露和親条約

1907。7.24 第三次日韓協約締結

1910.8.29 韓国併合に関する条約調印

1910.9.   韓国併合

1914.6.28 サラエボ事件 オーストリア=ナンガリー帝国皇嗣と妻が
          サラエボ訪問中セルビア人民族主義者の青年に暗殺される

1914.7.28 オーストリア=ハンガリー セルビアに宣戦布告
          第一次世界大戦勃発

1914.2.   戦争は世界全ての経済大国を巻き込み、それら連合国
          (ロシア、フランス、イギリス、三国協商に基づく)
          中欧同盟国(ドイツ・オーストリア=ハンガリー中心)         
          と云う二つの陣営に二分した

1914.8.23  日英同盟に基づいて、日本はドイツに宣戦布告した

1914.9,29~10,14 に掛けて 帝国海軍は赤道以北のニューギニア
          を占領 

1914,10,31~11,7に掛けて、日栄連合軍がドイツの東アジアの拠点               '           を攻略

1915,10   間戦前に南洋諸島に派遣されていたドイツ東洋艦隊は逃亡し
          南アメリカ大陸ホーン岬周りで帰還を試みるも赤道以南の
          ドイツ領ニュ-ギニアは、オーストラリアトニュージーランド
          占拠し、連合国軍は太平洋に於けるドイツ領の全てを奪取した

1916,3,   英艦隊の追跡迎撃を受け

1918.8    シベリア出兵 ロシア革命により社会主義国家が樹立すると
          ロシアは大戦から離脱し連合国側は社会主義政権を封じる為    '         
          表向きは「ロシアに残っているチェコ軍団の救出という名目で
          出兵を行った。

1918,11,11 第一次世界大戦終結 連合国が勝利し 

1919,6,28 ' ヴェルサイユ講和条約が調印されると、日本は赤道以北の      '           
           旧ドイツ領にゅぎにあの地域を委任統治する事に為った。
           大戦が終結し、ロシアに残っているチェコ軍団救出という     
           大義名分を喪失した連合国は改序でロシアから撤退する中
           領土的野心を持った日本軍だけが駐留を続けた

1920,3、~5 に掛けて、共産パルチザンと黒竜江河口の尼港に進駐していた
          日本軍守備隊と居留者700人を殲滅。 更に数千人いたと云
          われる現地市民を逆刺した上、街に放火した

1920,7,29 北樺太進駐  シベリアには交渉すべき政府が無く、
          将来正当な政府が樹立されて、事件の満足な解決が得られるま
          でとし北樺太を保証占領。
1922.10 迄に何人地国益を得る事が出来なかったシベリアから撤兵するが、
          北から夫yとは1925年にかけ得て日露が国交を結ぶまで             
          保証占領を続ける
           ヴェルサイユ条約では? 日本が占領していた青島の腑州湾
           租借地と それに関連する特権も日本イン譲渡されたものの
           中国側は即時引き上げを求め民衆や学生は強く反発した?
           ドイツと開戦しているのであって、戦時国際法によりドイツ海                     
           外領土である腑州湾租借地の軍事占領を継続する必要があり             
           返還を含めた最終協定はドイツとの講和条約を持つ必要が   
          在った。  
          日本占領当初から腑州湾租借地の解消と中国への返還
           を予定しており、 ドイツ講和後の1922年12月10日
          中国に腑州湾を返還した。

1931.9.18 柳条湖事件   満州の柳条湖付近で日本の所有する南満州鉄
          道の線路が爆破される  満州に駐留していた関東軍は、これ
           を中国軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動を開始     
           五か月かけて満州全土を占領した

1932.3.1   満州国建国
           関東軍主導の下に満州国建国に至り、国家元首には清朝最後       
           の皇帝 愛新覚羅溥儀 が就いた。  しかし、実際には、
           南満州鉄道の爆破事件は、 軍事行動の口火とするための
           関東軍の部隊によって実行された謀略事件で在った
           熱河小主席は満州国建国宣言に署名したものの 約三万
           の兵士を育成し、ここではいくつかの衝突事件が起きていた
           中国軍は南京政府を加わった多数の正規軍を熱河に侵入
           させた為、満州国は熱河討伐を決定し関東軍と共に攻撃南下


1933.5.31 中国との間で搪沽(トウク)協定協定を結び、万里に長城線を
          国境として停戦した。    これにより柳条湖事件に始まる
          満州事変の軍事的衝突は停止された

1937.7.7  盧溝橋事件
                 対中国戦争勃発(1945年8月15日迄)

          夜間演習中の日本軍に向かって、散発的に実弾が発射される。
          成都事件 北海事件 通州事件など、度々日本人が札がうされ     
          る、排日事件gあ発生し、緊張が高まっていた日中間では、
          これをきっかけに全面千楼に突入した

1937.12.13 南京占領
1938.1,10  青島占領
1938.1.11  山東省済寧占領
1938.5.10  厦門占領
1938.5.19  徐州占領

1938.7.29  張鼓峰事件 満州国と大日本帝国とソ連の間にある丘陵を
           巡り度連とのあいだで戦闘が起る 8月11日停戦
           
1938.10.12 信陽占領
           広東占領
1938.10.27 武漢三鎮占領  
           武官陥落により蒋介石は重慶に政府を移した

1939.1.~   重慶爆撃
1939.2.10  海南島上陸
     3.    海州占領
           南昌占拠
1939.5.11  ハルハ河戦争(ノモンハン事件)
           満州国とモンゴルの国境線を巡って発生 両国の後ろ盾と
           なっている 日本 と ソ連 が大規模な戦闘を展開し、9月16に
           両国占拠天で停戦に合意。

1939.9.1   のドイツポーランド侵攻によって欧州では第二次世界大戦が
           勃発
1939.11.   南寧作戦
           ビルマルート(主にイギリスが中国紹介制政権を軍事援助す    
           るために用いた輸送船)遮断を目的。   対ルク各地で繰
           り広げられた戦争は長期化の様相を呈し、泥沼化していった




1940.9.23. 仏印進駐
           日仏間で利益を相互に尊重すること等が合意され (松岡
           アンリ協定) 。日本軍がフランス領インドシナ北部に
           進駐を開始。 それに伴い無用と成った南寧を放棄

 
1940.9.27 日独伊三国同盟を締結した日本は、アメリカの警戒心を招
          くことに成った  外交上中立を維持していたアメリカ
          は、三国条約に対する、対抗措置をとると表明し、石油製品
          の対日輸出を規制強化など、経済封鎖を強めて行った

1941.5。   石油を求め、日本はオランダ領東インドと交渉 交渉は
          一時成立したにもかかわらず、アメリカの圧力によって
          打ち切られた 

1941.7.28 資源獲得の為日本軍が南下 仏印進駐を実施すると、アメリカ
          は石油の対日全面禁輸に踏み切った。  当時の日本は石油の
          8割をアメリカからの輸入していたため、禁輸措置は戦争の継
          続の不可のみならず、日本経済破滅を意味した。

大東亜戦争 年表 戦闘編 勃発後



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.1941.12.8 日本、米英に宣戦布告
           マレー作戦開始 
           真珠湾攻撃
           九龍半島攻略開始
           タイ進駐
           フィリピン・グアム空襲
1941.12.10. グアム、タワラ、マキン占領
            マレー沖海戦に勝利 ルソン島北部上陸

1941.12.13  九龍半島占拠
1941.12.14  香港島攻略開始
1941.12。15  ビルマ・ビクトリアポイント占領
            ベナン島占領
1941.12.16  ボルネオ島(ユタキナバル)上陸
            戦艦大和竣工
1941.12。20  ミンダナオ島上陸(パラオから)

欧米の植民位置ではなく独立国家であったタイに
            進駐した日本軍との間ではせんとうもあったが、
            進駐許可が出され、12月21日に日タイ間で甲種同盟が
            結ばれ、その後タイは英米に宣戦布告した
1941.12.23  ウェーク島占領
1941.12.25  英軍降伏 香港島占領

1941.12.28  募兵に寄り集まったタイ在住のビルマ人による
            「ビルマ独立義勇軍」が誕生
1942、1.2    マニラ無血占領

1942.1.8    連合軍 タイ攻撃開始

1941.1.11   日本オランダに宣戦布告
            クアラルンプール占拠
            蘭印領タラカン島上陸
            蘭印領セレベス島メナドに落下傘降下
1941.1.14   ラバウル攻略部隊本体グアムに出発
1941.1.15   英領ビルマ攻撃部隊がタイに集結
1941.1.20   タイから山脈を超えてビルマへ
            ビルマ独立義勇軍も同行し、道案内や宣撫工作
            (軍の目的や方針などを伝えて人々を安心させる事)
            に協力した。ビルマの青年たちは次々と義勇軍に参加した
1942.1.22   カビエン占領
1942.1.23   ラバウル占拠
1942.1.24   第一次バターン半島総攻撃開始
            バリクパパン沖海戦敗北 
            ケンダリ上陸
1942.1.25   バリクパパン占領
1942.1.27.  エンドウ沖海戦 勝利
1942.1.31.  ビルマ信仰開始
            マレー半島南端ジョホールバル占拠
            連合軍、マレー南東とシンガポールを結ぶ道路を撃破
1942.2.1    米機動部隊 マーシャル諸島来襲
1942.2.3    アンポン島占領
1942.2.4    ジャワ沖海戦 勝利
1942.2。7    シンガポール上陸
            マカッサル上陸
1942.2.10   パンジェルマシン占領
1942,2.14。  バレンバン、落下傘部隊で占領
1942.2.15   英豪降伏 シンガポール占領

1942.2.19   バリ島上陸
            バリ島沖海戦 勝利
1942.2,20   ティモール島上陸
            ニューギニア沖海戦 大損害を被るも米軍を撤退させる

1942,2.23   連合軍降伏 ティモール島占領

1942.2,24   米機動部隊、ウェーク島来襲
1942、2.27   スバラヤ沖海戦 完勝
1942.2.28   バタビア沖海戦 勝利
1942、3.2    ミンダナオ島サポアンガ上陸
1942.3,4    米機動部隊、南鳥島来襲
            パタピア(現ジャカルタ)占領
1942.3.8    ラングーン(現ヤンゴン)占領
            ニューギニア島ラエ、サラモア占領
1942.3.9    ジャワ島の蘭印軍降伏
1942.3.12   北部スマトラ上陸
            蘭印の連合軍降伏
1942.3.13   マッカーサー、フィリピンからオーストラリアへ脱出
            この日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡はマッカーサーの軍
            歴の数少ない失態と成り 後に10万余りの将兵を捨てて
            逃げた卑怯者と云われた

1942.3.23   アンダマン諸島上陸
1942.3,30   アンダマン占領
1942,3,31   ブーゲンビル島上陸
1942.4.3    第二次バターン半島総攻撃開始
1942,4,5    スリランカ・コロンボの英軍基地空襲
            セイロン沖海戦 勝利
1942,4,9    バターン半島米比軍降伏

1942.4.18   ドーリットル空襲
            米空母より発信したB-25爆敵機に寄って実施した
            日本本土に対するはじめての空襲  16機のB-25爆撃
            機は、東京、埼玉、新潟、神戸 名古屋などに空襲を行い
            連合軍勢下の中国大陸の飛行上位着陸する予定で在ったが
            天候の悪化に加え 誘導電波装置が設置されてなかったこ
            とから夜間の着陸は不可能となり 
            中国東部にて不時着 あるいわ空中脱出し新潟を爆適した
            8番気がウラジヲストクに着陸したのみで 15機が全損し 
            不時着した機体もあり 
             米兵八人が捕虜となった
1942.5.1    マンダレー占領
1942,5,2    ツラギ ガプツ タンナポゴ島占領
1942.5.4    アキャブ占領
1942.5.5    コレヒドール島占領
            珊瑚海海戦
1942.5.7    空母祥鳳沈没
1942.5.10   ミンダナオ島占領
            5月末までにビルマ全面占領が完了し、日本は
            波補給ルートを確保するために、6月からタイ
            とビルマを結ぶ全長400Kmの鉄道(泰緬鉄道)の建設に着手
            した。  迅速さを要求されたためビルマ・タイ・インド
            ネシア人など数十万人が作業に当たりコレラなどで約半数
            とも言われる大量の死者を出した。。
            1943年10月に開通し鉄道の一部は?今でもタイで
            使われている。
1942.5。29   マダガスカル島の英軍基地を攻撃
1942,5.31   シドニーの英軍基地を攻撃
            (いずれも日本軍特殊潜航艇による攻撃)
1942.6.5    ミッドウェー海戦 大敗
            空母 加賀 蒼龍沈没 
1942.6.6    空母 赤城 飛龍沈没
1942.6,7    アリューシャン列島キスカ等上陸 占領
1942.6.8    アリューシャン列島アッツ島占領
1942.6.9    フィリピン米軍全部隊降伏
1942.6.13   ニコバル諸島無血占領
1942.6.16   ポートモレスビー連合軍基地を空襲
1942.6.20   伊26潜水艦 バンクーバーカナダ具基地を砲撃
1942.6、21   伊25潜水艦 オレゴン州アストリア米軍
            基地を砲撃
            7月迄にフィリピン全土を占領した日本軍は、直ぐに
            フィリピンで新たな政府構造の編成を始めた
            1942年10月14日フィリピン第二共和国として独立
            させるが、米は日本の傀儡政権である都市これを認めず
1942,7、6    海軍飛行常設永代ガダルカナル島に上陸。大本営はラバウ
            ル以南に航空基地を建設し、ソロモン諸島の制空権を確保
            仕様と考えていたが、のちに大東亜戦争有数の激戦地に
            なる事と成る
1942.7.12   朝日新聞社 第27回全国中学校野球部大会の中止発表
            5月~9月 せ号作戦  爆撃機による本土空襲を阻止す
            るために、浙江省以南の連合軍勢力下の飛行場を攻撃占領
1942,7,21   ブナに上陸
            オーエンスタンレー山脈(4000M標高)を超え直線距離にし
            て、220Km 陸路でポートモレスビー攻略を目指す           
1942.7.29   山間部では通常の補給が困難なため、コメだけで一人
            10kg以上復職日にゃ装備合わせると40kg以上
1942,8,5    ガ島空港設営隊 滑走路第一期工事完了 
1942.8.7    米軍ガダルカナル島に奇襲上陸
            ツラギ ガブツ タナンボゴ島で戦闘
1942.8.8    米軍ツラギ及び周辺諸島占領 日本人戦死者
            1100名 生存3名
            第一次ソロモン開戦 勝利
            しかし、連合軍の輸送船団見逃す 第八艦隊反転せず
1942.8,17   米軍マキン奇襲上陸、日本軍守備隊壊滅
1942,8,18   一木支隊、ガダルカナル島タイボ岬に上陸
1942.8.21   一木支隊 ガ島飛行場奪回に失敗し壊滅
1942.8.24   ニューギニア島東端ラビ攻略開始
            第二次ソロモン海戦 敗北 空母龍驤沈没

1942、8.31   川口支隊主力ガダルカナル島に上陸
            イスラパ占領
1942.9、6    ラビ占領失敗撤退
1942、9,9    伊25潜水艦より発信した艦載機がアメリカ本土
            オレゴン州を空襲
1942.9、25   川口支隊、ガ島飛行場奪回作戦(第一次総攻撃)
            を行うも失敗
1942.9.15   伊19潜水艦 米空母ワスプ撃沈
1942,9.16   ポートモレスビーの灯が見えるイオリバイワを占領するも
            ガダルカナル方面の対応を優先させるために後退命令
            4000M級の山もある大山岳地帯での行軍で在り マラリア
            で宇gけない塀が多数いた為、撤退は困難を極めた
1942,9.28   オーストラリア軍、イオバイアを奪還
1942.9.29   伊25潜水艦より発信した艦載機がアメリカ本土オレゴン
            州を再空襲
1942.10。9   第二師団主力 ガダルカナル島に上陸
1942.10.10  重慶に於いて英米中ソの対h日作戦会議が行われる
1942.10、11  サボ沖海戦 敗北
1942.10.13  戦艦 金剛 榛名 ガ島飛行場艦砲射撃
1942.10、14  海軍機ガ島空襲 重巡 鳥海 衣笠 艦砲射撃
            日本軍第二師団 大保寧あてに電文 
            「23日にはガダルカナルの占領を完了 ツラギ 
            レンネル サンクリストバルに転身しこれを占領予定」
1942.10.24  日本軍第二師団 ガ島飛行場奪回作戦開始(第二次総攻   
            撃)陸軍支援の為に 軽巡由良 駆逐艦秋月 ルンガ沖突入
1942.10.26  南太平洋海戦 
            軽巡由良沈没 第二師団が島奪回失敗
            陸軍ガ島総攻撃支援の為に投入された空母を含む
            日本海軍艦隊であったが? これを阻止すべく米軍も空母
            機動部隊を派遣し、 南太平洋海戦に至った
            米空母ホーネット撃沈 空母エンタープライズを中破させ
            米軍の稼働空母をゼロにさせるも、日本海軍も真珠湾攻撃
            からの熟練搭乗員を多数失い 加えてガ島奪還にも失敗
1942.11.12  第三次ソロモン海戦
1942。11.13  戦艦比叡沈没
1942.11.15  戦艦霧島沈没
1942、11、16  オーウトラリア軍 オロ湾に上陸し飛行場を占拠
1942.11.18  日本軍増援1500人パサプア上陸 ブナへ
1942、11,21  日本軍増援 800人パサブア上陸 ブナへ
            同日連合軍ブナ攻撃開始  米軍い制空権を奪われていた
            日本軍は 低速輸送船ではなく 愛の速い駆逐艦を使って   
            度々ニューギニア増援を試みるも、連合軍の空襲に遭い
            輸送作戦は中止に追い込まれた
1942、11,30  ルンガ沖夜戦 ガ島への夜間補給を察知した米海軍は 
            重巡洋艦4隻 軽巡洋艦1隻 駆逐艦6を派遣し 輸送任
            務中の駆逐艦8隻と戦闘となる
            米巡洋艦1沈没 重巡3隻大破 被害沈没1と云う日本軍
            の一方的勝利であったが?本来の補給作戦は失敗した
1942,12,8   ニューギニア島バサプア守備隊玉砕 兵力に劣るにも拘ら
            ず、にほんぐんは粘り強い抵抗を見せた。現地オーストラ
            リア軍は、次のような電報を送った
            「 ジャップは死ぬまで抵抗を辞める事なく その為
             わが軍は多くの損害を出しつつあり、いずれの側かが完   
             全にゼロに為る迄は勝負は着かぬ様相を呈せり」
1942、12、18   日本軍 マダントウェワクに上陸 フォン半島の西側に
             初めて進出
1942,12、23   ガダルカナル島の戦いは過酷を極め、陣地を護るのは、
             断つことも出来なくなった傷病兵と云う現状に陥ってい
             た。 守備に就いていた兵士たちの間ではある姓名判断
             流行り出した。断つことの出来る人間は寿命30日 身
             体おこして座れる人間は3週間 寝たきり起きれない人
             間は1週間。寝た儘小便をするものは3日 物を言わな
             くなったものは2日 瞬きしなくなったものは明日

1943、1,2     ニューギニア島ブナ守備隊玉砕
1943.1、4     ケ号作戦 ガダルカナル島撤退の大命下る
1943、1,7     ラバウルからラエに増援部隊到着
1943,1、9     日華共同声明  南京国民政府(汪兆銘政権)
             英米に宣戦布告 日華協定を締結
             日本航空部隊は15日からガ島撤退支援の為に夜間攻撃
             強化、ほぼ連夜に私爆撃を行った。
1943.1.16    ワウに向けて進軍開始
1943,1,17    南海市体調のおだ検索少将は、最後の砦と成ったギルワ
             陣地から歩行可能な兵士を脱出させた後自決
1943.1.21    連合軍がギルワじんちに突入占領
1943.1.23    ガ島撤退支援陽動作戦 伊8潜水艦カントン島への夜間
             艦砲射撃実施 また、航空部隊はポートモレスビーと
             ラビへの夜間爆敵も同時に実施していた
1943,1、28    ガ島撤退支援の為バイシー島占領
1943.1.29    レンネル島沖海戦 日本軍勝利するも米輸送船無事ガ島
             到着
1943,1,31    ガ島撤退支援陽動作戦、伊8潜水艦、カントン島への
             夜間艦砲射撃再実施
1943,2、1     第一次ガ島撤退作戦
1943、2,4     第二次ガ島撤退作戦
1943、2,13    ワウ攻略失敗撤退
             ガダルカナル島を巡る日本軍のダイス用も千は撤退作戦  
             の成功でいちおうの膜を閉じた
1943、2,16    ガダルカナル島に上陸した総兵力は3.1404名 
             内撤退できたものは、1.0652名 それ以前に負傷
             護送されたもの740名 死者、行方不明者は
             2.0000人強 このうち直接の先頭で戦死者は
             5000名 残り1.5000名は餓死と戦病死だった
             と推定されている
             一方、アメリカ軍損害は戦死 1598名 戦傷
             4709名であり、ミッドウェー海戦と共にこの戦争に
             於ける甲種の転換点となった
1943.3.2     ビスマルク海海戦 大敗
             月緒撤退後、大本営はニューギニア島東部方面に作戦の
             重点を移したが、 ラバウルからニューギニア島ラエに
             向かう日本の輸送船団が粗(ホボ)壊滅 3000人以上が
             戦死した
1943.3.5     ビラ・スタンモーア夜戦、敗北 駆逐艦2隻が一方的
             な攻撃を受けて沈没
             広州湾共同防衛協議締結 仏妖広州湾租借地進駐
1943,3,26    アッツ島沖海戦
             米海軍は日本軍緒アッツ島方面への輸送を阻止居ようと
             して艦隊を派遣。 日本ぐにゅそう船団を護衛する第五
             艦隊との間で昼間水上戦闘となった。
             米艦隊を撃退するも アッツ島への輸送は失敗に終わり
             これ以降アリューシャン方面に於ける輸送作戦は極めて
             困難となる。
1943,4,7~15  い号作戦
             ガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレス
             ビー、オロ湾 ミルン湾に対して空襲を実施
             多数の連合軍艦船を喪失させたが、日本軍側も航空機
             61機と多くの搭乗員を失った
1943,4、18    海軍甲事件
             い号作戦視察中の山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機
             ブーゲンビル島上空で撃墜される 59歳没
             日本側は知らなかったが??米軍情報部は当時すでに
             日本軍の暗号解読に成功しており、山本長官の視察経路
             と予定時刻を把握していた。 山本長官の戦士は全軍の
             四季に大きな盈虚を与える事が予想されたため、関係者
             には箝口令が敷かれ、後任の古賀峯一が山本の遺骨とと
             もに戦艦武蔵でトラック等を出発し 遺骨が到着した5
             月21日に戦死の事実が公表され 6月5日国葬された
1943。5.12    米軍アッツ島上陸
             アッツ島守備隊2650名に対し、べいぐんの装備は戦
             艦3  巡洋艦6 護衛空母1 駆逐艦19 兵数
             1.1000。
1943、5、29    夜 守備隊から最後の電報が打電される 敵に最後の鉄
             槌を下し殲滅 皇軍の真価を発揮せんとす 攻撃前進
             後 無線電信機を破壊 暗号所を償却する
1943,5、20   陸軍大臣は直ちに参内し、アッツ玉砕を天皇に奏上した
             天皇は大臣の報告をだかって聞いておられたが、報告が
             終わると一息「アッツ島守備隊はまことに良くやってく
             れた。その事を伝えよ」と仰った
             大臣が「しかし陛下! 彼らは無線機既に破壊しており
             直後をお伝えする手段がございません」 と申し上げる
             と 天皇は「其れでも構わぬからとにかくそう云う電波
             を発して遣れ」と
1943.5.29    アッツ島玉砕
             直ちにアッツ島守備隊に向けて電報が発せられたが返信
             が来る頃は無かった
1943.6、7~16  ルンガ沖航空戦
             連合軍の航空機、艦船に大きな損害を与える音が出来ず
             自軍の航空戦力を消耗
1943,6,8     伊勢型戦艦 日向 沈没 第三砲塔爆発による事故
             (史実では戦艦陸奥)
1943、4~6月    江南殲滅作戦
1943、6、21    学徒動員 
             戦争拡大に伴い労働力の不足が深刻化した為、東条内閣
             「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定し学校報国隊                        
             を強化し 戦技 特技 防空訓練を計り 女子は救護
             訓練を行った。 
             そして「さらなる戦局悪化により 10月には在学徴収               
             延期臨時特例が交付され 学徒出陣が行われる事と成る
1943,6,30    米軍部隊5000名 ソロモン諸島レンドハ島上陸、日
             日本軍守備隊120名一蹴
             米軍ニューギニア島ナッソー湾上陸

1943,7.4     米軍、ニュージョージア島上陸
1943,7,5     クラ湾夜戦、日本軍物資揚陸失敗
1943.7.6     南東方面司令部を後方のラバウルから最前線のブーゲン
             ビル島ブインに移す
1943.7,12    コロンバンカラ島沖海戦
             コンバンカラ島への輸送部隊と連合軍が交戦
             日本勝利 輸送作戦成功
1943,7,17    ブインとショートランド泊地が米軍機約
             290機により大空襲を受ける
1943。7.25    米軍はM3軽戦車スチュワート6両を先頭に
             ニュージョージア島むんだ飛行場への攻勢を開始し
             対戦車装備の乏しい日本軍は破甲爆雷を用いて
             肉弾戦を行ったが、多大な損害をだすことと成った
1943.7.29    キスカ等撤退作戦
             キスカ等を包囲していた連合軍に全く気付かれず
             日本軍が濃霧の中無傷で守備隊全員の撤収に成功する奇
             跡
1943,8,1     ビルマ独立
             日本の支援を受けていぎしるの植民地支配から独立する
             形で誕生したが 日本の傀儡政権とする見方もある 
             同盟条約を締結するとともに 米英に対して宣戦布告
             を行った
1943,8,5     米軍、ムンダ飛行場を占領
             日本軍、コロンバンガラ島に後退
1943.8.6     ベラ湾夜戦 大敗
             輸送中のコロンバンガラ増援1200名戦死
1943,8,15    ベララベラ島上陸
1943,8,17    第一次ベララベラ海戦
             日本軍はベララベラ島増援輸送に成功
             戦況が悪化する中、ベララベラ島への米軍の上陸は
             中部ソロモン放棄の決定打となった
             連合軍、ウェワクとブーツの日本飛行場を奇襲空襲
             日本機100機(約半数)の航空機を失う
1943.8.26    サイタイサベル島水上機基地の撤収開始人員は
             チョイセル島スンピ守備隊に配置
1943、8.30    日本軍、ニュージョージア島放棄 コロンバンガラ島
             に転進
1943,8,31    米機動部隊、ベーカー島空襲
             南鳥島空襲
1943、9,4     連合軍 ラエ サラモアに上陸
             上野動物園で猛獣を処分
1943,9,8     イタリア 連合軍に降伏
1943,9.10    鳥取自信が発生 鳥取市が壊滅し1083名が死亡
1943,9、11    連合軍がサラモアを奪還
1943,9,16    連合軍がラエを奪還
1943,9月中旬~10月末 サラモア ラエの残存日本軍がやまを超えてキアリ
             に撤退
1943,9、22    連合軍、フィンシュハーフェンに上陸
1943,9、28    日本軍、コロンバンガラ島から撤退開始
1943.9,30    御前会議でぜんったい国防圏構想を決定
             帝国戦争遂行上太平洋及びインド洋方面に於いて絶対
             保すべき要域を 千島 小笠原 内南洋(中西部)
             及び西部ニューギニア スンダ ビルマ を含む圏とす
1943,10,2    連合軍、フィンシュハーフェン占領
1943、10、12~11月11日ラバウル空襲
1943,10,6    米機動部隊、ベーカー島空襲
             第二次ベララベラ海戦 勝利 
             駆逐艦1沈没 戦死138名犠牲を出すも
             日本軍はベララベラ島からの撤収に成功
1943、10、14   フィリピン第二共和国独立
             アメリカは1935年にはフィリピンの独立を
             約束していたので 日本もフィリピンとビルマを
             独立させた。 しかしアメリカはにほんの傀儡政権であ
             るとし、これを認めなかった
1943,10月~    連合軍英領インドから信仰開始
1943,10,21   明治神宮外苑にて出陣学徒壮行式開催
1943,10,24   スバス・チャンドラ・ボーズが日本統治下の
             シンガポールで自由インド仮政府の成立を宣言
1943,10,27   連合軍チョイセル島上陸
1943、10,28   ろ号作戦発動
             航空戦力を持ってブーゲンビル島上陸を阻止せよ
1943,11,1,   連合軍 ブーゲンビル島タロキナ岬に上陸
             ブーゲンビル島沖海戦 敗北
             タロキナ岬に逆上陸できず
1943、11,5    ラバウル空襲
             反撃ブーゲンビル島沖航空戦は、12月3日まで第6次
             に渡り続いたが 日本軍が失った航空機179機に対し
             連合軍の損失は航空機23機 駆逐艦1隻
1943,11、5~6  東京で大東亜会議を開催 大東亜共栄圏宣言を発表
             日本 中華民国(汪兆銘政権)国民政府 10月30日
             に同盟条約に調印 満州国 フィリピン ビルマ タイ 
             インド
1943,11,11   ラバウル空襲
1943,11,21   上陸支援ギルバート諸島沖航空戦
             連合軍マキン島 タラワ島 上陸
1943,11,23   兵力10倍 マキン タラワ守備隊玉砕
1943,11,24   セントジョージ岬沖海戦 敗北
1943,11,25   米中連合航空隊が台湾を空襲
1943,11,29   ナボイの戦い 勝利
             日本軍はブーゲンビル島東からの米軍上陸を阻止
             この戦いは、アメリカ軍にとって事前砲撃の重要性を
             再認識させる教訓と成った
1943,12、5    マーシャル諸島沖航空戦
             米軍の奇襲を受けすぐさま戦闘機が迎撃にでたものの
             離陸が間に合わなかった戦闘機 陸攻 水偵が被弾
             日本航空機 船舶に大損害をだした
1943,12,10   文部省 学童の縁故疎開促進を発表
1943、12,14   米軍、マーカス岬空襲 上陸支援
1943,12,15   米軍 マーカス岬上陸
1943,12,17   競馬開催中止を閣議決定
1943,11月~翌年1月 常徳殲滅作戦
             中国方面戦力の太平洋方面転用前に積極的防御に出るも
             両軍大損害
1943,12,19   フィンシュハーフェンの日本軍に撤退命令
1943、12,25   日本軍 サルミに上陸
1943,12,26   米軍 グロスター岬に上陸
1943,12、27   日本軍 ビアク島に上陸
1944,1,2     米軍 サイドルに上陸
             ダンヒール海峡が突破された事に寄り
             ビスマルク海は連合軍の制圧かとなり
             ラバウルからのニューギニア方面への補給は絶望的
             となった
1944,1,7     大本営 インパール作戦を認可
             日本放送協会 「前線へ送る夕べ」の放送開始
1944,1,9     英印軍 ビルマ領内マウンドオ占領
1944,1,19    女子挺身隊結成 14歳~25歳までの未婚女性を軍需
             工場などに動員           
1944,1,24    スイカ、メロン など普及作物の作付けを禁止
1944,1,26    内務省 東京 名古屋に初の疎開命令
1944,1,30    米軍 クェゼリン環礁への侵攻
             米軍が日本の領土に侵攻したのは、委任統治領とは云え
             これが初めての事であり グアム ベリュー 硫黄島 
             日本本土に続く鳶尻作戦を次の段階に進めるうえで重要
             な戦いだった
1944,2,3     第二次アキャブ作戦
             たった4日分の弾薬と食料を携行させただけの補給を軽
             視した杜撰な作戦。突撃と自決を強要する無能な師団長
             連隊長の棚端真一は 師団長との無線を封止視したうえ
             で独断で400名の部下に撤退を命ずる
1944、2,6     クェゼリン方面守備隊対玉砕
1944、2,15    連合軍 グリーン諸島ニッサン島上陸「敵みゆ」
             「敵上陸完了せり 兵力2000以上」
1944、2,17    トラック島空襲 被害甚大
1944、2,19    グリーン諸島守備隊より最後の打電
            「我敵陣に突入す 連絡を絶つ」
             連合軍戦力5806名に対し 日本軍守備隊102名
1944,2,29    連合軍 アドミラルティ諸島攻略開始
1944,3.5     連合軍 ビルマ北部空挺降下
1944、3,8     第二次タロキナ作戦
             米軍が建設した飛行場制圧が目的だったが、
             圧倒的な火力差により損害だけが増える事と成った
1944,3,8     インパール作戦(ウ号作戦)開始
             中国(蒋介石政権)援助ルートの遮断を目的として
             英領インド北東部の都市であるインパール高りゃうを目
             指し進軍        
1944,3,9     以後、補給が絶たれたブーゲンビル島の日本軍には
             栄養失調の兵士が続出し、飢餓者やマラリア患者などが
             バタバタと倒れていった ガダルカナル島の
             餓島に対して ボーゲンビル島の墓島 と呼ばれる状況    
             であった 
1944.3、20    米軍 エミラウ等を無血占領
             連合軍は 日本軍の一大拠点であり 頑強な抵抗が予想
             される「ラバウル要塞」を攻略しようとせず 包囲して
             補給を断つ作戦をとった
1944、3,20    エミラウ島の占領でラバウルの日本軍は武器を自作し
             食料や日用品の自給自足体制迄整え終戦迄籠城する事と
             なる。
1944、3,30~4月1日 パラオ空襲 航空機150機損失
1944,3,30~4月3日 ホーランジア空襲 100機損失
1944,3,31    海軍乙事件
             タバオへ向かう連合艦隊司令長官 古賀峯一搭乗機が
             行方不明 不時着した二番機から機密文書流出
1944.4.6     インパール北方のコヒマを占領
             日本軍の攻勢は此処迄で、補給船は伸びきっており
             前線の部隊には一粒の米 一発の弾薬もとどかないよう
             な状況であった。 この作戦は、のちに史上最悪の作戦
             と云われるようになる。第二方面軍司令官阿南惟幾大将
             アドミラル諸島を奪取した連合軍の次の目標はウェワク
             で在ると判断し第18軍に対してマダンを捨てて
             ウェワクへ転身するよう命じた。
1944、4,17    大陸打通作戦開始
            目的は、日本海軍の艦船や台湾を攻撃していた爆撃機を阻   
            止するために、中国内陸部の連合軍の飛行場を占領する事
            日本勢力下にあるフランス領インドシナの陸路をひらくこ
            とであった。

1944,4,19   大陸打通作戦 鄭州を占領
            コックピット作戦  連合軍、スマトラ島北部の港湾と
            石油施設を爆撃          
1944、4,22   連合軍、ホーランジア、 アイタベに上陸 ウェワクへの
            転進中の日本軍をよそに 連合軍は一気に通り越し
            ホーラジアに侵攻した(ニューギニア島は保トン緒がジャ
            ングルに覆われており 日本軍が駐留していた場所は
            極わずかだが 対潜序盤の蘭印軍の降伏によりオランダ領
            東インド全域を日本の占領かとした)
             連合軍上陸の目的はニューギニアの日本軍の殲滅ではな   
            く、フィリピンの攻略の為の前進基地の建設であり 
            無価値な拠点は放置し、無駄な戦闘を避ける事であった。
            連合軍 ホーランジア、イタベに上陸の5日後には飛行場
            などは連合軍の制圧下に入り、のちにダグラス・マッカー
            サーは占領した
            ホーランシアを拠点として フィリピン奪回作戦の指
            導を獲る事と成る。
1944,5,17   トランサム作戦
            連合軍、スラバヤの港や飛行場、製油所を爆撃
            ビルマ・ミイトキーナ強襲 連合軍空挺部隊、ミイトキー
            の飛行場を占拠。 
            連合軍は飛行場占領直後に、増援部隊600名を載せた
            グライダー20枢機を着陸させた。 以降も部隊の空輸は
            、続き、ミイトキーナ市街地に縦想った日本軍はゲリラ戦
            で抵抗を続けた
1944,5,25   大陸痛打作戦 落葉を占領 
1944,5,27   米軍、ビアク島に上陸
1944,5,31,  アドミラルティ諸島方面守備隊玉砕。
1944,6,1    インパール作戦、抗明事件 
            前線には補給が届かず 戦病・飢餓者が多数出たことから
            佐藤幸徳第31師団長は軍法会議に於いて死刑を覚悟した
            うえで独断で撤退を決定 コヒマ放棄
1944,6,2    渾作戦
            日本軍、ビアク島に増援を送るも失敗 中止
            中国 雲南遠征軍が垃孟に侵攻
1944,6,11   連合軍サイパン空襲
1944.6.13   サイパン艦砲射撃(18万発)
1944,6,15   米軍 中国大陸から北九州へ初空襲
            連合軍、サイパン上陸
            「広告の興廃此の一戦に在り、角印一層墳芸努力せよ」
1944,6,16   日本軍、サイパン守備隊総攻撃開始
1944.6.19   マリアナ沖海戦
            空母翔鶴 空母大鳳 沈没
1944,6,20   空母飛鷹 沈没 戦死者3500名 大敗
1944,6,27   中国雲南遠征軍が騰越に侵攻
            ビアク島守備隊玉砕
1944.7.3.   インパール作戦(ウ号作戦)中止命令
            退却戦に入っても日本兵を上戸病に苦しみ、力尽きた戦友
            の白骨が後続部隊の道しるべとなった
            「今、米軍ん一撃を加え 太平洋防波堤解いてサイパン島
            に骨を埋めんとす」突撃
1944,7,7,   サイパン守備隊玉砕
1944,7,10   アイタベの戦い
            東部ニューギニアに投入された日本軍の総計 
            16、0000兵力は5.4000人までに減少し、
            ウェワクに集結していた
            最後の決戦としてアイタへの奪還を狙うも更に
            1.3000人が戦死し、撤退する事に為る
1944.7.19   ビアクとう守備隊と連絡途絶
1944,7,20   米軍、グアム島空襲 艦砲射撃
1944.7.21   米軍 グアム島上陸
             米軍が上陸したアサン海岸は、第38旅団の
            第一大体が守備を担当しており、速射砲で砲撃を加えた後
            爆弾を撒いて戦車に体当たりするなどの肉弾戦を仕掛け、
            第一大体は全滅した。米軍は上陸初日に1047名の死傷
            者をだした。
1944,7,24,  米軍 テニアン島上陸
1944,7,30   米軍 テニアン市街占領
1944,8,2    テニアン島守備隊玉砕
            増援部隊を率いて駆け付けた 水上源蔵少将に対して、
            作戦参謀辻政信大佐は、「ミイトキーナを死守すべし」
            と何時孤児な手の死守命令を送っていた。だが、
            日本軍は限界に達し 水上は生き残った兵に脱出を命じた
            後、責任を取って自決した
1944,8,3,   ミイトキーナ陥落
1944.8.8    大陸打通作戦・衝陽占領
1944,8,11   グアム島の日本軍玉砕
1944,8,13   米軍 グアム島占領宣言
1944,8.22   米潜水艦が学童疎開輸送中の対馬丸を撃沈
1944,8,27   グアム島守備隊玉砕
            グアム占領を成し遂げた米軍は、皮肉にも日本軍設営し殆
            ど戦力とはならなかった飛行場を整備し、サイパン島と共
            に日本本土への戦力爆撃の拠点とした。
             後に太平洋戦争終結後初の内閣総理大臣と成る、
            東久邇宮稔彦親王は、グアム島の戦いの敗北で日本敗北を
            察したと云う。補給も途絶え、前線から鳥の子sれ田
            ニューギニア守備隊は、これ以降ウェワク周辺で食料を採
            取して自活し 散発的な戦闘を繰り返しながら終戦を迎え
            る事と成る    のちの証言に寄れば、日本兵の人肉直
            事件が発生したとされる
1944,9.12   米軍ベリュリュー島に上陸前砲撃
            航空機の予備爆撃に加えて、戦艦5隻 重巡5隻 軽巡4
            隻 駆逐艦14隻からの艦砲射撃と高性能焼夷弾 合計
            6894tの集中砲火で島内のジャングルを焼き払う

1944,9、13   垃孟守備隊及び騰越守備隊玉砕
1944,9,15   米軍、ベリュリュー島上陸
            米軍 モロタイ島に上陸
1944,9、17   米軍 アンガウル島に上陸
            連合軍はフィリピン上陸を見据えており
            咲だってフィリピン近くの航空っ基地を確保する必要が
            在った。
            また、フィリピン上陸部隊が近隣の日本軍基地航空機によ
            り攻撃されるのを防止するため、空海軍の総力を挙げて
            周辺の日本軍が残っている島々 中国海岸などに空爆を
            行った

1944、9、30   米軍、アンカウル島を占領
1944。10。4   米軍、モロタイ島を制圧へ
1944.10。10  米軍、沖縄を空襲 
            所在の日本軍艦船などに甚大な損害9を与えるとともに、
            那覇市のしがいちの大半が焼失し、民間人330名が死亡
            するなど、大きな被害が出た
1944、10、12~16日 台湾沖航空戦
            米軍は1378機を投入して、台湾の大空襲を行い、日本
            軍航空隊が迎撃に出たものの、米軍に与えた被害は軽微。
1944,10、17  米軍 スルアン島上陸 日本軍守備隊全滅。
1944、10,19  神風特別攻撃隊を編成
            アンガウル島守備隊が最後の突撃 玉砕
1944、10、20   米軍、レイテ島に上陸開始
1944。10、23  レイテ沖海戦
1944.10、24  戦艦武蔵沈没 
1944,10,25  戦艦扶桑、山城、空母瑞鶴 瑞鳳 千歳 千代田 沈没
            日本機動部隊全滅
            レイテ沖海戦に於いて神風特別攻撃隊の初出撃が行われ
            護衛空母を含む5隻に損害を与え一応の成功を収めた
              昭和天皇は、この生還を期さない特攻作戦について知
            らされておらず、及川軍令部総長が戦火を奏上した時、
            「そのように迄せねばならなかったのか??しかしよく       
             やった」と絶句しながら隊員の労をねぎらったと云う
1944、11,10   大陸打通作戦、桂林 柳州を占領
1944,11,11   松代大本営着工
1944,11,16   日本軍500名 モロタイ島に逆上陸
1944.11,20   回天特別攻撃隊菊水初陣 ウルシー泊地
             停泊中米給油艦ミシシヘワ撃沈
1944。11.24   米軍の新型爆撃機B-29がマリアナ諸島より
             出撃 東京を初空襲
             ベリリュー島より打電「サクラサク」
1944,11,25   ベリリュー島守備隊玉砕
             後にベリリュー人者に建立された碑には、東郷平八郎
             を尊敬するチェスター・ミニッツの詩文とされる文字列
             が刻み込まれている。
             諸国から訪れる旅人たちよ、この島を護る為に日本兵が
             如何に勇敢な愛国心を持って戦い そして玉砕したかを
             伝えられよ (米太平洋艦隊司令長官CWミニッツ)
             * 太平洋方面おの島々にはトラック島をはじめ残存日
             本軍は多数いるが、りょうどを守るうえでの制空・制海
             権を取り戻す機械が失われたと云う意味で除外。
1944.11,29   空母信濃、魚雷攻撃を受け沈没
1944,12,7    東南海地震が発生
             家屋倒壊と津波で1223名が死亡するも、情報統制に
             よって、殆ど報道されず。
1944,12,10   インドシナ到達、大陸打通作戦を完了
1944、12,11   レイテ島 オルモック陥落
1944,12,15   米軍、ミンドロとうに上陸
             フィリピンでは日本軍と共に 建国したばかりのフィリ
             ピン第二共和国の有志(マカピリ)が連合軍と戦う
             其処に吹いた神風。
1944、12,17   コブラ台風
             作戦中だった、ウィリアム・バルゼーの艦隊部隊が台風
             の直撃を受け 駆逐艦3隻が沈没 他9隻が深刻な被害
             空母モンテレーでは搭載機が壁に衝突して火災発生
             100機以上の航空機が失われた。
1944,12,26   礼号作戦(ミンドロ沖海戦)
             米軍泊地に艦隊が突入して砲撃、太平洋戦線に於ける
             帝国海軍組織的戦闘最後の勝利
1945,1,4     米軍、マニラ~リンガエン湾に掛けて爆撃
1945,1,6     連合軍、ルソン島艦砲射撃
1945,1,7     中国・成都より出撃したB29が大村空襲
1945,1,9     連合軍、ルソン島に上陸
             四式肉薄攻撃艇(マルレ)初陣
             ベニヤ製のモーターボートに250kg爆雷を搭載した
             特攻兵器。 歩兵揚陸艦1隻を撃沈、駆逐艦2隻・戦場
             揚陸艦3隻・輸送船1隻を損傷させる。
1945,1,13    三河自身発生
             家屋倒壊と津波で2306名が死亡するも情報統制によ
             り殆ど報道されず
1945,1,18    日本軍斬り込み隊、ミンドロ島に再上陸
1945、1,24    英海軍、スマトラの製油施設を空襲
1945.1月      レド公路開通
             英米が中国蒋介岩政権への軍需物資を送る援蒋ルー
             トの一つとして 日本が遮断していたビルマ公路に代わ
             り建設された。
1945,1,29    英海軍、スマトラ製油施設を再空襲 この攻撃により一
             時的ではあるがスマトラ・バレンバンの製油昨日は完全
             に停止。 日本軍は神風当別攻撃隊を出撃させ、うち皇
             盾第二隊は午後2時頃に突入電を発し 全機未帰還。
1945,2,3     連合軍 マニラ市街に突入
             70万人の市民が大規模と成る紫外線と成り10万人
             の市民が巻き添えで死亡。
1945,2,10    東南アジアに取り残されていた残存艦艇に燃料や重要資
             源を搭載し、日本への脱出を図る。甲板上に迄ガソリン
             を詰めたドラム缶多数が搭載された。 帝国陸軍が成功
             させた最後の作戦と成った
1945,2,12    英印軍 イラワジ河に到達
1945,2,19    米軍、硫黄島に上陸
             上陸前の徹底的な艦砲射撃で、ある海兵隊員米兵は
             「俺太陽の日本兵は残っているのか?」と戦友に訪ねた
             と云う。 しかし、偵察機では伺いせれないその答えに
             海兵隊員は上陸後、身を持って知る事と成る
1945,2.23    トルコが対日戦線を布告(連合軍の圧力)トルコでは市
             民が宣戦布告に反対してデモを行い、にほんに対しての
             軍事行動は一切行わなかった。
1945,2,28    米軍、パラワン島に上陸
1945.3.3     マニラ陥落
1945、3,10    米軍、ミンダナオ島に上陸
             東京大空襲
1945,3,12    名古屋大空襲
1945,3,14    大阪大空襲
1945、3,16    硫黄島、栗林中将より決別電
             連合軍 バシラン島に上陸 
1945,3,18    九州沖航空戦 追うか初陣も全機撃墜される
             米軍、バナイ島に上陸  
1945,3,19    ビルマ・マンダレー陥落
             いら鷲戦線の崩壊によって、既に日本軍敗北は明
             白だった。 アウンサンが日本と結んだのはビルマ独立
             の為であって、日本と心中する意志など持っていない
             時の首相バー・モウは「断固として敵を討て」と演説し
             たが、ビルマ国民軍1.1000名はアウンサンの指揮
             の元、日本軍に対して銃口を向けた。バー・モウのビル
             マ政府も崩壊の一途を辿る
1945,3,26    硫黄島守備隊玉砕
             米軍、セブ島に上陸
1945,4,1     米軍 沖縄に上陸
1945,4,6     菊水作戦発令「陸海全機特攻化」
1945,4,7,    坊の岬沖海戦 戦艦大和沈没
1945、4,10    老河口飛行場占領
1945,4,11    米軍、ボホール島に上陸
1945,4,12    米大統領ラーズベルト 急逝
             郡山空襲
1945、4,13    城北大空襲(豊島 渋谷 向島 深川)
1945,4,15    川崎・城南京浜大空襲(羽田、蒲田方面)
1945,4,16    京都空襲
1945、4,20    倉敷空襲
1945,4,21    鹿児島空襲
1945,4,23    沖縄戦、嘉数高台陥落
1945,4,28    ブッソリーニ拘束略式死刑
             ブッソリーニの遺体は群衆の前で逆さ吊りにされ
             唾を吐きかけられ、殴打され 顔面は変形した
1945、4,30    ドイツ総統ビドラー自殺
             ブッゾリーニの朋友であったビドラーは、生前に指示
             に従い遺体は部下たちによってガソリンが掛けられ燃や
             された。
1945,5,1     連合軍 ボルネオ、タラカン島に上陸
1945,5,2     ベルリン陥落
             ラングーン陥落
1945,5,3     ダバオ陥落
1945、5,5     呉市空襲
1945、5,7     ドイツ、無条件降伏を受諾
1945、5,8     ドイツ陸海軍代表 降伏文書に調印
1945,5,10    トクヤマ大空襲
1945,5、11    京都御所空襲
1945,5,16    ベナン沖海戦
             米豪軍がシュガーローフと呼んだ杏里52高地を守備
             していた部隊は、圧倒的物量で攻撃して来る米軍を
             1週間に渡り撃退した 仲でも狙撃兵の活躍が目覚ま
             しく、階級を示す微笑などで将校と認識すると、優先し
             て正確に狙撃した。
             次から次に後退と成るので、兵士からはトイレットペー
             パーと揶揄されていた、 中には着任して僅か15分で
             戦死した将校もいて、兵士が名前を覚える暇も無かった
1945,5,24    東京空襲(麹町 麻布 牛込 本郷 方面)
1945,5,25,   山の手大空襲 皇居の一部炎上
             日本軍 何寧を放棄
1945,5,27    歩行不能の重将兵約5000名が首里城の地下陣地
             で自決
1945,5,29    首里陥落
             横浜大空襲
1945,5,31    台北大空襲
1945、6,1     尼崎 奈良 空襲
1945,5,5     神戸空襲
1945,6,6     沖縄戦、第32軍大田実少々より決別電報
             「沖縄県民斯(カ)く戦えり 県民に対し後世
             特別の御高配を賜らんことを」
1945、6,7     大阪空襲
1945,6,8     御前会議 本土決戦の方針を確認
1945,6,9     熱田空襲
1945、6,10    土浦、日立 千葉空襲
             連合軍 ボルネオ・ブルネイ湾に上陸
1945,6,15    大阪空襲
1945、6,17    鹿児島大空襲
1945,6、18    浜松、四日市空襲
1945,6,19    福岡 静岡大空襲 豊橋空襲
1945,6,21    名古屋空襲
1945,6,22    姫路 水島 名務原 呉 空襲
1945.6.23    沖縄守備軍最高指揮官自決、守備隊壊滅
1945,6,26    京都 奈良空襲
             国際連合発足
1945,6、28    呉大空襲
1945,6,29    佐世保大空襲 岡山空襲  
1945,7,1     熊本大空襲 呉市空襲
1945,7,2     下関空襲
1945,7,3     姫路大空襲
1945,7,4     徳島 高知 大空襲 高松空襲
1945,7,6     千葉 甲府空襲
1945,7,7     清水大空襲 明石空種
1945、7,9     和歌山 堺 岐阜大空襲
1945,7,10    仙台空襲
1945,7,12    宇都宮大空襲  敦賀空襲
1945,7,13    一宮空襲
1945,7,14    北海道空襲 釜石艦砲射撃
1945、7,15    室蘭艦砲射撃
1945,7,16    平塚大空襲 大分空襲
             アメリカ 原子爆弾の実験成功
             原爆運搬艦 サンフランシスコより出航
1945,7,18    沼津大空襲 桑名空襲 日立艦砲射撃
1945,7、19    福井 日立 銚子 岡崎空襲
1945,7,23    犬山空襲
1945,7,24    大阪 半田 津 呉軍港空襲
1945,7,25    保戸島空襲 串本艦砲射撃
             米国 原爆使用を決定し投下命令を下す
1945、7、26    松山大空襲 平 徳山空襲
             連合軍首脳ポツダム宣言を発表
             原爆がテニアン島に到着
1945,7,27    鹿児島大空襲
1945,7,28    青森大空襲 一宮 宇治山田空襲
1945,7,29    浜松艦砲射撃 大垣 津空襲
1945、7,31    清水港艦砲射撃
             リトルボーイ組み立て完了
             テニアン沖にて原爆投下リハーサル、
1945、8、1     水戸 八王子 長岡空襲
1945,8,2     富山大空襲
1945,8、5     前橋 高崎空襲
             今治 佐賀空襲
1945,8,6     米軍広島に史上初の原子爆弾を投下
1945、8.7     豊川空襲
1945,8,8,    福山 八幡大空襲
             日ソ中立条約を破棄し、それんが戦線布告
             満州国 朝鮮半島北部へ侵攻
1945.8.9     米軍 長崎に原子爆弾投下
             大湊湾海戦(事実上最後の海戦)
             
1945,8.10    横手空襲
             
1945,8,14    
1945,8,15    ソ連軍 南樺太に侵攻開始
1945,8,16    新潟に原子爆弾投下
1945、8.18    ソ連軍 千島列島 占守等に侵攻
1945、8,19    神風特攻隊 ソ連軍に出撃 満州では 谷藤徹夫 
             少尉他10名の青年将校が、妻や恋人の2名を同乗させ
             進行してきたソ連軍の戦車隊に特攻した
1945。8.20    真岡郵便電信局事件 電話交換手女性10名が自決
1945,8,21    熊本に原爆投下
1945,8,22    三船殉難事件 樺太からの避難者を載せた 小笠原丸
             秦東丸がソ連潜水艦の攻撃を受け沈没して1708名以
             上が犠牲となった。
1945,8,25    ソ連軍 千島列島の松輪島を占領
1945.8。27    名古屋に原爆投下
1945,8,28    ソ連軍 南樺太を占領
             ソ連軍 択捉島を占領
1945,8,29    ソ連軍 千島列島のウルップ島を占領
1945、9,1,    ソ連軍 国後島 歯舞島を占領
1945,9,3     川崎に原爆投下
1945,9,5     ソ連軍 色丹島を占領
             ソ連軍が北方四島の占領を完了
             満州の関東軍首脳部がハバロフスクへ移動
1945,9,9     佐世保に原爆投下 
1945,9.12    函館に原爆投下
1945,9,19    尼崎に原爆投下
1945、9.23    呉に原爆投下
1945、10,1    徳山に原爆投下
1945,10、12   仙台に原爆投下              


(ダウンフォール作戦)

アメリカ合衆国軍
193.8300 人以上
イギリス国軍
20.0000 人以上
・戦艦24隻以上
・航空母艦60隻以上
・駆逐艦450隻以上
・補助艦艇3500隻以上
・航空機6000機以上

・原子爆弾の随時投下
・生物化学兵器の常時使用


1945,11,1 オリンピック作戦 九州へ上陸

1946、3、1  コロネット作戦  九十九里浜 湘南海岸 から上陸


1946,10,1 日本完全降伏







本土決戦用
(連合軍調査前に日本軍に破壊されたものは含まない)
日本軍
陸軍  315.0000人
海軍  150.0000人
民間兵3000.0000人以上

航空機
1.1000機
海軍
戦艦1 陸奥
空母5 隼鷹 葛城  阿蘇 生駒 伊吹
重巡4 青葉 妙高 高雄 利根
軽巡4 酒匂 北上 大淀 香取
駆逐艦40
潜水艦41
特殊潜航艇3800
各種の特殊潜航艇 800



兵器名 総数
火砲 (口径40mm以下) 37、5141
火砲 (口径40–50mm) 2606
火砲 (口径60–79mm) 4216
火砲 (口径80–99mm) 4693
火砲(口径100mm以上) 4742
火砲 (その他) 3、8262
重機関銃   17、8097
軽機関銃  18、6680
小銃 223、2505
自動小銃 246、8665
拳銃 24,7125
その他小火器 1.5461
装甲車  98
豆戦車  633
戦車  5286(三式中戦車)







物語 年表

物語前 治明時代~正大時代


治明元年(1868年)
江戸時代を終えて、近代国家大日本帝国設立。年号も 治明 と改める。

治明19年(1875年)
▲物語では この当時桐谷流始祖当時21歳は、日本の格闘家でNo1と認められる。

治明27年(1894年)7月25日
日清戦争 勃発

治明28年(1895年)4月17日
日清戦争 終結 台湾割譲 

治明34年(1889年)       
▲物語では、桐谷流始祖 アメリカに渡り凡(アラ)ゆる格闘技王座を破り、事実上世界一と認められる 桐谷流始祖当時35歳 


治明25年(1901年)4月29日
和昭天皇生誕。



治明33年(1900-1901)6月20日―翌年9月7日
義和団の乱 6月21日欧米日列強に清国が宣戦布告  北京議定書

治明37年(1904年)2月8日
日露戦争 勃発

治明38年(1905年)9月5日
日露戦争 ポーツマス講和会議で 終結

治明43年(1910年)8月29日
日本 朝鮮併合

治明44年(1911年)9月29日―翌10月18日
伊土戦争(イタリアvsオスマントルコ)伊軍勝利リビア獲得
           
正大2年(1913年) 
袁世凱 中国共和党 1915年迄
           
正大3年(1914年)7月28日―1918年11月11日 
第一次世界大戦勃発

正大3年(1914年-1922年)12月1日~
青島占領期 山東経営

正大6年(1917年) 
イタリア軍 オーストリア=ハンガリー帝国軍に勝利(第一次世界大戦)

正大6年(1917年)3月8日―6月16日
ロシア革命

(1918年)
ハンガリー・ルーマニア戦争  ルーマニア勝利。 ハンガリー社会主義政府失敗。

正大7年(1918年)8月  ―正大11年(1922年)10月
シベリア出兵開始 共産主義の牽制の一環として、英 仏 伊 等の企画に乗った形で、北満州からシベリアへの勢力圏拡大の意図も有り ロシア内戦干渉への参加を決定(1922年) 撤兵を声明し(同10月までに撤兵を完了する。

正大7年(1918年)11月11日
第一次世界大戦終結。
           
正大8年 (1919年)
日本 国連に人種差別撤廃提案提出

正大8年(1919年)
レーニンが コクミンテルンを組織  米国にコミンテルンのスパイが入り込み暗躍。反日世論工作を展開

正大8年(1919年―1921年)
ドイツ軍の撤退に乗じて 1722年以来 プロイセン オーストリア ロシアによって三分割されていた ポーランド独立宣言 ポーランド・ソ連戦争 各地の共産主義政権と連携しようとするソ連政府にポーランドが勝利。

正大8年(1919年)1月
パリ講和会議 6月ベルサイユ条約 山東省 パラオ マーシャル 赤道北の南洋諸島を得た。
正大8年(1919年)3月 21か国の代表者を集めて ロシアのボリシベビッキ政権は コミンテルンを設立  資本主義体制を打倒し 全ての階級を完全に廃止し、プラれたりアート独裁と、ソ連を盟主とした国際ソビエト共和国を樹立しようと宣言する。
▲物語では、この頃から桐谷流始祖の天皇陛下からの絶大な信頼を得始める 桐谷流始祖当時五十五歳

正大8年(1919ー1943)
コクミンテルン発足 国際共産主義運動組織

正大8年(1919年―1921年)
アイルランド独立戦争。 アイルランド自由国が独立
アフガニスタンはイギリスに対抗して、外交権得て独立権を確立
キート戦争(小アジア戦争。)トルコアンカラ政府が勝利。ギリシアは、セーゼル条約で得た領地を失う

正大9年(1920年)
ドイツ共産党がコクミンテルンの指導の基 武装蜂起 鎮圧されドイツ革命の失敗。
尼港事件  赤軍パルチザンによる、大規模な住民6000人虐殺事件。

正大9年(1920年)
米ウォール街爆破事件 この後アメリカ景気最高潮に成って行く。

正大10年(1921年)11月12日―翌年2月6日
ワシントン海軍軍縮会議
米英蘭伊日仏ベルギー、ポルトガル、中華民国  九か国条約 山東省を手渡す 日本の中国権益をはく奪する。 日本の孤立化へ
ワシントン条約 戦艦比率 5:5:3 
▲物語では 日本はこの条約から脱退 独自の道を進む

正大11年(1922年)
アイルランド内戦 アイルランド自由国政府 対 アイルランド民族主義者が、完全独立を目指して、テロ ゲリラ戦を行って、アイルランド分裂

正大11年(1922年)
ソビエト社会主義連邦生れる コクミンテル 内部から国民党をコントロール 
           
正大12年(1923年)
日英同盟拡大解消(1902年― )アメリカ協調路線 アメリカの圧力による。

正大12年(1923年)
ダチス ミュンヘン一揆蜂起失敗
 
正大12年(1923年)8月17日 
ワシントン軍縮条約効力発生。
▲物語では、効力が亡くなってしまう

正大12年(1923年)9月1日
関東大震災。 14万2800人死者・行方不明者 不逞鮮人が放火・略奪・強姦などをする。

正大13年(1924年)
レーニン死去
          



正大14年(1925年)
普通選挙法、治安維持法(社会主義弾圧)成立。

正大14年(1925年)1月20日
日ソ基本条約締結

正大15年(1926年ー1949年)
国民党 共産党 国共内戦

物語前 和昭時代初頭~第二次世界大戦勃発前


和昭2年(1927年)
コクミンテルンは各国怖領事館を襲って、南京を占領 米英戦艦が南京に砲撃 南京事件  蒋介石は反共クーデターにより 南京を占拠国民政府を樹立。対してコミンテルンは、広東や南詔で武装蜂起

和昭2年(1927年)4月5日―
昭和金融恐慌  鈴木商店事業停止 台湾銀行休止 
鈴木商店系現企業 神戸製鋼 帝人 サッポロビール アサヒビール 三井住友海上火災保険 三菱レイヨン 台湾糖行公司 

和昭2年(1927年)4月12日
上海クーデター 袁世凱の子分 張作霖  共産党を追い出して 第一次国共合作終わり。軍閥退治(北伐1926-1928)北京へ!軍閥は満州に向かう。

和昭2年(1927年)6月20日ー8月4日
ジュネーブ海軍軍縮会議 米 の比率主義と英 の個艦規制主義 とが対立。決裂で、中止 
▲物語では、ここで、軍縮条約は、事実上フリーになる 桐谷流を身に着けた優秀な諜報員によって、軍縮会議は破綻する

和昭2年(1927年)10月
毛沢東 江西省チンカンシャンに革命拠点を此処に置く。

和昭3年(1928年)
ソ連で、スターリンとトロツキーが、一国共産主義か?世界共産主義か?で揉める 同年コミンテルンによるインドネシア共産党蜂起は完全に鎮圧されてしまう。

和昭3年(1928年)5月3日
コミンテルンが、国民党と日本軍を戦わせるために仕組んだ、国民党軍に紛れ込んだ共産党員が日本人居留民を虐殺 済南事件 山東省 国民党軍が略奪銃乱射 残虐な殺害
北伐に向かう国民党軍と日本軍を衝突させる

和昭3年(1928年)~(1932年)
ソ連五か年計画。工業の重工業化と農村の集団化が強行される。    

和昭3年(1928年)
第6回コクミンテルン大会では、一国共産主義が採択され、世界プロレタリアート① 来たるべき、資本主義との闘争 ② 中国革命の防衛 ③ ソビエト連邦の防衛 

和昭3年(1928年)
パリ不戦条約が締結され、米、英、仏、独、伊、日など15カ国が署名。後にソ連も含め63カ国が署名する。国際紛争を解決する手段として、契約国相互での戦争を放棄する。平和的手段で解決する事が規定される。自衛戦争に対する、侵略 の定義が為されなかった。 経済制裁が、戦争に含まれるか?否か?不明確な儘だった。

和昭3年(1928年)
イタリアでは、。ファシズトの一党専制の決議がなされる。 
           
和昭4年(1929年)10月24日 
世界大恐慌   アメリカ株価大暴落 暗黒木曜日 世界大恐慌の波拡がる。
▲物語では、此の恐慌を境に 桐谷流始祖の発言力が高まる 石油産業インフラ開発 地下鉄開発 高速道路の整備と安価な自家用車の開発など重工業に重きを置き始める 

和昭4年(1929年)


和昭5年(1930年)
マジノ線建設開始( フランス対ドイツ防衛線。 )
           
和昭5年(1930年) 
火炎瓶( モロトフカクテル使用開始 )
           
和昭5年(1930年)1月21日~4月23日 
ロンドン軍縮会議。10:10:7  1936年末までの暫定的締結。
物語では、この会議自体実質無効 

コミンテルンが裏で操る 対日破壊活動が激化し、日本人への迫害が頻発していました。日本に対する破壊活動
           
和昭6年(1931年)4月14日
スペイン第二共和国成立。国王アルフォンソ13世国外亡命
           
和昭6年(1931年)9月18日 
満州事変 22:20頃奉天市郊外柳条湖付近で満州鉄道の線路が爆破されたのをきっかけにして始まる。(柳条湖事件) 日本軍は張学良の司令部の在る奉天城を攻撃
           
           
和昭7年(1932年)3月1日 
満州国建国  満州の治安を安定させた。日本に対する共産化の防波堤にした。

和昭7年(1932年)5月15日 
五・一五事件犬養毅射殺。
           
和昭7年(1932年)1月28日~3月3日
第一次上海事件 上海共同租界周辺で起きた日中両軍の衝突

和昭7年(1932年)
イギリスは、イギリスの植民地(英領インド)との日本の貿易を禁止 アメリカと不況による貿易減少で東南アジアに活路を求めた日本の生命線を一つ失う。

和昭7年(1932年)
コミンテルンは、天皇制の打倒 既成地主と財閥の打倒 戦争反対 の 32年テーゼを支持した。万国労働者のソ連を防衛し、 帝国主義戦争の反対を唱えるとともに、日 米 英 仏 独 伊 列強を対立させることを決議 ソ連の戦争が始めれば、各国共産党員は、ソ連を迎え入れる。
スターリンは、社会民主主義をファシズムと同一視する、社会ファシズム論を採用し、社会民主党を共産党最大の敵とみなして、ナチス党と組んで社会民主党を攻撃。それによって、ドイツにビドラー政権が誕生する。

和昭7年(1932年)6月
戦前最後の駐日アメリカ大使 ジョセフ・クラール・グルー(1880-)が就任。(1924年2月国務次官に就任)(1927年9月トルコ大使に就任)(1942年6月国務次官に就任)(1945年8月15日国務次官辞任)

和昭8年(1933年)
満州国の米ソ介入を阻止された米ソは、国交を回復 両国は日本共通の敵となる。
           
和昭8年(1933年)1月 
F・ラーズベルト大統領 第一期目開始  
ダチス政権獲得
           
和昭8年(1933年)3月   
日本国際連盟を脱退。
           
和昭8年(1933年)後半 
ソ連BT-5戦車生産開始
           ( 史実:和昭9年(1934年)12月 軍縮条約を日本が破棄 )
山本六十六全権)
           
和昭9年(1934年)4月   
独 ビドラーが総統になる。  一号戦車生産開始

和昭10年(1935年)
9月15日独ニュルンベルク法制定 

和昭10年(1935年)夏
モスクワで行われた、第7回コミンテルン大会では、日本を対象にした、反ファッショ人民戦線戦術が採択され、社会主義派から民族独立派 更には保守層まで含むあらゆる勢力と共闘する 人民戦線戦術を方針としました。共産主義者の祖国を護る、一国共産主義となる。
ドイツと日本を暴走させよ!!しかしその矛先をロシアに向けさせてはならない、ドイツの矛先は、フランスとイギリスへ、日本の矛先は中国の国民党へ向けさせる。そして戦力の消耗した、ドイツと日本の前に アメリカを参戦させて、敗北させよ! 日本とドイツの敗戦は必至である。。 日独が荒らしまわった地域と疲弊したドイツと日本をそっくり共産主義に取り込むのだ!!砕氷船理論
植民地被抑圧民族の帝国主義国家への民族解放戦争が必要である。戦争が始まったら、内乱を起こさせ、 革命を起こす。   
           
和昭10年(1935年)10月 
独 二号戦車生産開始
           
和昭10年(1935年)12月 
第二次ロンドン軍縮条約会議  日本不参加
           
和昭10年(1935年)
日本陸軍九十五式軽戦車製造開始

和昭10年(1935年)3月 
独軍 空軍の存在を内外に公表。徴兵制始まる。再軍備混獲的に成る。英仏も再軍備始める。  
          '
和昭11年(1936年)2月14日 
モンゴル人民共和国に脅威が発生する場合、ソ連は援助を行うと述べた。(同3月12日)ソ連・モンゴル相互援助議定書締結

和昭11年(1936年)     
日独防共協定

和昭11年(1936年)7月17日―1939年4月1日 
スペイン内戦 共和制の左派に対して、フランコ率いるファシズムの右派の闘い右派の勝利。

和昭11年(1936年)
ビドラー別荘 ベルクホーフ改築。(1932年春―エヴァ・ブラウン居住始まる)
           
和昭11年(1936年)9月8日 
ナチス党大会 四か年計画を発表。
           
和昭11年(1936年)12月12日
日西安事件 内戦を停止し 共同して日本と闘う事を決定。
           
和昭12年(1937年)
F・ラーズベルト大統領 二期目開始    
共産主義コクミンテルンに対抗するため 日独伊防共協定
                ’          
和昭12年(1937年)7月7日 
日中戦争勃発( 盧溝橋事件 演習中の日本軍に中国国民革命軍大二十九軍が発砲、日中全面戦争へ )
コクミンテルにより、国民党と日本軍の講和を妨害される。 日本人を残虐な方法で殺戮して、日本国民の中国へ意識を向けさせる。

和昭12年(1937年)7月29日 
通州事件
大紅門事件 日本軍騎兵惨殺事件 廊坊事件 広安門事件 通州事件 を経て、大山中尉惨殺事件(全て日本側が被害者)  第二次上海事変へ

和昭12年(1939年)8月9日―10月17日
チャハル作戦
           
和昭12年(1937年)8月13日~10月26日
第二次上海事変中華民国軍の日本租界への攻撃に単は発する日本軍との軍事衝突 中国戦争は北支事変は支那事変へと拡大して行く、                  
                       
8月15日 共産党参戦全面戦争

8月21日 中ソ不可侵条約

10月5日 
コミンテルン影響下ラーズベルトが、日本を無秩序と言う疫病と表現して、日本を威嚇すべきと発言する。 米英は積極的に国民党支援 

和昭12年(1937年)10月5日 
ラーズベルト大統領は、世界に無法状態を生み出す国家は隔離されるべき!「隔離演説」を行った。

和昭12年(1937年)11月7日 
日本軍上海上陸。

和昭12年(1937年)10月9日~翌1月31日      '         南京陥落 
           
和昭12年(1937年)  
ローマ法王共産主義から中国を護る日本 
           
和昭12年(1937年)9月6日―13日
ナチス党ニュルンベルク大会 秩父の宮来賓 

和昭12年(1937年)
独 三号戦車 量産型登場-1942
独 四号戦車 量産型登場-1945

和昭12年(1937年)12月12日
パネー号事件  日本海軍機が 揚子江上に於いて、米国アジア艦隊所属の警備船「 パネー号 」を攻撃して、沈没させ、その際に機銃掃射を行ったとされる、パネー号事件が生じた。

和昭13年(1938年)4月1日
国家総動員法 施行

和昭14年(1937年)3月
国家総動員法 制定  人 物 金銭 全体主義的かつ総合的な統制法  

和昭13年(1938年)3月12日
ドイツ オーストリアを併合
           
和昭13年(1938年)8月29日 
イギリス首相とビドラーの間で、ズデーデン地方を割譲すれば、その後侵略はしないと約束。
           
和昭13年(1938年)9月6日―12日 
最後のナチス党大会 大ドイツ ニュルンベルク

和昭13年(1938年)7月29日―8月11日
ハサン湖戦争(張鼓峰事件)満州国東側国境戦 国境を維持 ソ連軍大きな被害。

和昭13年(1938年)10月 
援蒋ルート開始
           
和昭14年(1939年)1月 
               
重慶爆撃開始―1943年8月23日迄
           
和昭14年(1939年)3月
               
独チェコスロバキアへ進行
           
和昭14年(1939年)4月1日
スペインフランコ政権内戦を制し確立
         
和昭14年(1939年)4月 
ソ連、英仏に連合関係を持ちかけるが拒否される。。
           
和昭14年(1939年)4月1日
スペイン内戦終結

和昭14年(1939年)5月 
独伊軍事同盟条約
          
和昭14年(1939年)5月11日ー9月16日
ハルハ河戦争(ノモンハン) ソ連軍勝利 しかしソ連軍の被害甚大。 

和昭14年(1939年)7月
米は日本との日米通商航海条約の破棄を日本に通告。 

和昭14年(1939年)8月2日
アインシュタインが、フランクリン・ラーズベルトに宛てた、2ページにわたる、核爆弾開発進言書簡に署名  
(物語では、この書簡の事が日本諜報員によって、情報として日本軍にもたらされている。)                                 
           
和昭14年(1939年)8月23日 
独ソ不可侵条約締結  同時に英仏がソ連と同盟交渉しかし、ヒトラーがソ連との同盟を勝ち取る。
イギリスはポーランドとの軍事同盟を結ぶ

物語開始(第二次世界大戦勃発時) 陸海統合参謀本部発表シュミレーション
~大東亜戦争勃発前迄


          
和昭14年(1939年)9月1日 独ポーランド侵攻
第二次世界大戦勃発  9月27日ワルシャワ陥落
           
和昭14年(1939年)9月3日
英仏 独に宣戦布告

和昭14年(1939年)9月23日
独ソでポーランド分割

和昭14年(1939年)11月4日―12月28日
グレー米大使と野村吉三郎外相と三回会談

▲物語 1939年11月23日 アメリカの接近信管の開発状況を確認する事に成功 三式弾の開発難航中 誘導ミサイル開発順調 
       
和昭14年(1939年)11月30日
ソ連フィンランド侵攻 ソ連国連追放

和昭14年(1939年)12月13日 水曜日
初めて、八姫中学校父兄から戦死者が出る。 九六式陸攻搭乗員 ○年○組△△♀の父親。
           
和昭14年(1939年)12月
ソ連 T-34中戦車導入 ミハエル・コーシュキン    設計 量産化間もなく激務が祟り肺炎にて死亡。

和昭14年(1939年)12月
米の対日制裁が強化されてゆく
ソ連KV-Ⅰ重戦車 KV-Ⅱ重戦車生産開始 
ソ連T-34中戦車 生産開始 (本格的生産、1940年9月)

参謀本部シュミレーション 1940年



1940年1月10日 -
ドイツ軍機がベルギーに墜落し、ドイツ軍作戦計画書類がベルギー軍に回収される。メヘレン事件

和昭15年(1940年)年1月21日 -
浅間丸事件

和昭15年(1940年)2月10日 -
ソ連軍、カレリア地峡で攻勢開始。

和昭15年(1940年)2月11日 -
独ソ経済会談にて、第一次独ソ経済協定の延長決定及び独ソ通商協定締結

和昭15年(1940年)2月16日 -
イギリスが中立のノルウェー海域でドイツ商船を臨検しイギリス軍捕虜を解放(アルトマルク号事件)

和昭15年(1940年)2月17日 -
ソ連軍、マンネルハイム線突破

和昭15年(1940年)年2月22日 -
ドイツ、ヴィーキンガー作戦開始(独軍による 北海 にて 英漁船を拿捕 撃沈する目的の作戦 失敗。)

和昭15年(1940年)年3月12日
フィンランドとソ連の間でモスクワ講和条約が締結され、冬戦争終結

和昭15年(1940年)3月18日
アドルフ・ビドラーとベニート・ブッゾリーニが会談
           '
和昭15年(1940年)3月30日
汪兆銘親日政府が樹立

和昭15年(1940年)4月5日 -
イギリス、ウィルフレッド作戦
1940年4月に開始された英軍のノルウェー領海への機雷敷設作戦。独はスウェーデンから鉄鉱石を輸入しており、夏季はバルト海経由で運ばれていたが、冬季はノルウェーのナルヴィクまで運ばれた後船によってノルウェー沿岸を通って独へ運ばれていた。作戦の目的は、ノルウェー領海内に機雷を敷設し、独の鉄鉱石輸送船の航行を妨害することにあった。
1940年4月8日 -
ヴェルフィヨルド入口で 英駆逐艦グローヲーム と 独ナルヴィク トロンハイム攻略部隊と遭遇 (衝角攻撃)を行う(トロンヘイム沖海戦)となり、グローヲームがアドミリラルヒッパーに体当たり グローヲーム沈没 5日迄にヴェストフィヨルド入口ボードー沖への機雷敷設は完了。 独ナルヴィク攻略部隊は、妨害を受ける事なくヴェストフィヨルドを通って目的地に到着。

和昭15年(1940年)4月6日
英仏軍がノルウェー鉄鉱石港を占拠。その後独軍に獲られる。

和昭15年(1940年)4月9日
ドイツがデンマーク及びノルウェーに侵攻(ヴェーザー演習作戦)、デンマークは無血占領
オスロフィヨルドの戦い
4月9日
- ドイツがデンマーク及びノルウェーに侵攻(ヴェーザー演習作戦)、デンマークは無血占領
- オスロフィヨルドの戦い1940年4月9日のノルウェーオスロフィヨルドで起こった戦闘を扱う。
1940年4月、ドイツ軍はノルウェー侵攻作戦を開始し、ノルウェー各地に向けて侵攻部隊が出撃した。そのうちの一つオスロ攻略部隊は重巡洋艦ブリュッヒャー(旗艦)、ポケット戦艦リュッツォウ、軽巡洋艦エムデン、水雷艇アルバトロス、コンドル、メーヴェ及び複数の小型艦艇で、指揮官はオスカー・クメッツ少将であった。部隊は4月8日にキールを出撃してオスロへ向かった。

オスロフィヨルドの入り口でドイツ艦隊は要塞島ラウエイとボレルネから探照灯の照射と砲撃を受けた。また、 アルバトロスがノルウェーの哨戒艇ポル3と交戦してこれを沈めた。その後ドイツ艦隊はブリュッヒャーを先頭にして、オスロフィヨルドへ侵入していった。また、水雷艇アルバトロス、コンドルと第1掃海艇隊のRボートR17、R21がホルテン軍港の占領に分派された。9日5時過ぎ、ドレーバク水道に差し掛かった時ドイツ艦隊はオスカシボルグ要塞の砲台から砲撃を受けた。ブリュッヒャーには複数の砲弾が命中し、艦尾に受けた命中弾では舵が損傷した。さらにカホルム島にあった魚雷発射管から発射された魚雷が2本命中して7時32分に横転し沈没した。ブリュッヒャーの後ろにいたリュッツォウも前部砲塔などに命中弾を合計3発受けた。

一方、ホルテン軍港などの占領に向かったアルバトロス、コンドルなども激しい抵抗にあった。ノルウェーの敷設艦オーラヴ・トリュグヴァソンの攻撃でR17が沈み、アルバトロスも損傷した。アルバトロスはさらに砲弾からの攻撃を受け、その後座礁して全損となった。だが、ドイツ軍はホルテン軍港を降伏させ、その後オスカシボルグ要塞もドイツ軍に降伏した。

そして、ドイツ艦隊は10日にオスロに着いたが、オスロはその前に空輸された部隊によって占領されていた。オスロからの帰路リュッツォウはイギリスの潜水艦スピアフィッシュの雷撃を受け、魚雷2本が命中して大破した。

1940年4月10日
- 第1次ナルヴィク海戦
- イギリスでMAUD委員会設立

1940年4月12日 -
イギリスがデンマーク領フェロー諸島を占領(ヴァレンタイン作戦)

1940年4月13日 -
第2次ナルヴィク海戦
第二次世界大戦中の海戦の一つ。ナルヴィクのあるノルウェーのオフォト・フィヨルドで、戦艦ウォースパイトを中心とするイギリス艦隊がドイツ軍ナルヴィク攻略部隊の駆逐艦を攻撃し全滅させた。

1940年4月14日 -
イギリス軍が、ハーシュタとナムソスへ上陸
          
和昭15年(1940年)5月10-6月25日
ドイツ フランス侵攻(6月4日ダンケルクから英仏兵イギリス救出。)
ドイツがフランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻(黄色作戦)、まやかし戦争終了
- イギリスによるアイスランド侵攻
- エバン・エマール要塞の戦い
- イギリスのネビル・チェンバレン首相が辞職。チャーチルが第1次チャーチル内閣組織

和昭15年(1940)年5月12日
- この大戦初の大規模戦車戦アニューの戦い

和昭15年(1940年)1940年5月13日
- ドイツ、マース川渡河

和昭15年(1940年)1940年5月14日
- ドイツ軍機約50機がロッテルダム爆撃

和昭15年(1940年)年5月15日
- オランダ降伏

和昭15年(1940年)年5月16日
- ドイツ、AB行動開始

和昭15年(1940年5月20日
- フランス、レイノー首相が陸軍総司令官ガムランを解任。後任は、ウェイガン。

和昭15年(1940年)6月
イタリア参戦

和昭15年(1940年)6月10日―7月11日
グルー米大使と有田八郎外相五回会談行う。

和昭15年(1940年)6月10日
伊英カラブリア沖海戦

和昭15年(1940年)7月3日
カタパルト作戦、メルスエルケケビールのフランス軍艦をイギリス海軍が攻撃する。

和昭15年(1940年)7月
米軍海軍増強開始
ベトナム北部(北部仏印)日本軍進駐 
           
和昭15年(1940年)7月10日ー10月31日
バトルオブブリテン   独戦闘機1464機 爆撃機1808機 英戦闘機 903機 爆撃機560機 哨戒機500機 交戦 独1900機損失 英1700機損失   1940.5迄攻撃継続  ハインケルHe111 航続距離2800km 零戦航続距離3350km(物語改良メッサーシュミット190 航続距離2200km・改良フォッケウルフ190航続距離2,300km)
                     
和昭15年(1940年)7月27日 
大東和共栄圏構想 東南アジアへの武力行使決定

和昭15年(1940年)7月
新体制運動を提唱する 第二次近衛秀麿内閣発足 大東和共栄圏建設構想
南進論盛り上がる
アメリカ 国防強化促進法 大統領の輸出権利を与えられる。 日本への輸出規制が強化される。

和昭15年(1940年)8月
米 対日輸出特殊光学機械など石油鉄くずなどを許可制にする

和昭15年(1940年)8月
アメリカの日中戦争軍事介入
           
和昭15年(1940年)8月19日
重慶爆撃熾烈化
           
和昭15年(1940年)8月
米 M3中戦車 量産開始
           
和昭15年(1940年)9月3日 
英米防衛協定(武器の輸出)

和昭15年(1940年)9月12日
グルー米大使は通信を行い。対日路線に転じた 融和的政策から強硬的な政策に。赤信号から青信号に変わったといわれる。

和昭15年(1940年)9月13日-翌1月6日
イタリア軍 エジプト侵攻 

和昭15年(1940年)9月17日
ドイツ軍 イギリス侵攻計画を断念 作戦を代える。夜間爆撃などで空爆を続ける。

和昭15年(1940年)9月20日
米軍部拡張計画発案
           
和昭15年(1940年)9月22日ー9月26日
日本 フランス領インドシナ進駐

和昭15年(1940年)9月23日―25日     
ダカール沖海戦 フランス領アフリカに英軍が侵攻 ヴィシー政権下のフランス軍に撃退される。

和昭15年(1940年)9月27日
日独伊三国同盟 (それまでは、日独伊三国防共協定)

和昭15年(1940年)10月16日
米 日本に対する 屑鉄 鉄鋼 輸出禁止

和昭15年(1940年)10月28日 
イタリア軍ギリシア侵攻開始。11月14日からギリシア軍反抗。翌4月にギリシア軍は、イタリアを追い出しアルバニア迄進行する。
           

和昭15年(1940年)11月 
ラーズベルト再選 イギリスに武器提供断言

和昭15年(1940年)11月11日~12日
イタリアタラント軍港空襲 空母イラストリアス21機雷撃攻撃 伊戦艦コンテデカブール撃沈 伊戦艦リットリオ大破 伊戦艦カイオドゥイリオ大破 
           
和昭15年(1940年)12月
パープル暗号(日本軍)解読 JN25はその二年前にイギリスで解読積み。

和昭15年12月8日―翌2月9日 
コンパス作戦 イタリア軍対イギリス軍のアフリカの戦闘 伊軍15.0万人 英軍3.6万人イギリス勝利。



和昭16年1月
F・ラーズベルト大統領 三期目 開始

和昭16年(1941年)三月議会
レンドリース法(武器貸与法)
連合軍に軍需品の売却・譲渡・交換し得ることを定めた法律 ~1945.8
           
和昭16年(1941年)3月-43年5月           

ドイツ軍リビア侵攻 アフリカ戦線
           
和昭16年4月5日―30日
ドイツ軍ギリシア侵攻ギリシア占領。
             
和昭16年(1941年)4月16日
日米交渉開始(ワシントン)
           
和昭16年(1941年)
4月伊英マタパン岬沖海戦にて、   ' 伊軍惨敗。(アレクサンドリア港攻撃では英戦艦二隻を大破させる)
           
和昭16年(1941年)4月25日
日ソ不可侵条約 

和昭16年(1941年)6月 
南進論決定される 諜報員ゾルゲがその情報をソ連に伝える。
米日本語学校設立
           
和昭16年(1941年)6月22日
独ソ戦開始。バルバロッサ作戦

和昭16年(1941年)7月 
関東軍兵力増強 16個歩兵師団 2個戦車師団 航空機750機

和昭16年(1941年)7月23日
南部仏印 への進駐決定
          
和昭16年(1941年)8月1日
アメリカは、侵略国へ石油の禁輸を発表 日本の資産を凍結

和昭16年(1941年)9月6日
帝国国策遂行要領  10月下旬をめどとして戦争純部を完了させ、外交交渉で10月上旬に至っても日本の要求がアメリカに通らなければ 但し②かいせんを決意する。   
          
和昭16年(1941年)9月12日―12月2日
日米交渉
        
 
独ソ ロストフ戦
           
和昭16年(1941年)10月2日―翌1月7日
                     独ソ モスクワ戦

           
和昭16年(1941年)漸減邀撃作戦撤回!真珠湾攻撃認可 

  


          
 和昭16年(1941年)11月27日 米時間11月26日
バルノート提出。領土主権の不可侵 内政不干渉 中国とインドシナから軍と警察の撤退 三国同盟の解消 国民党以外の中国勢力を否認 通商機会の平等 国際平和解決

大東亜戦争勃発~1942年末迄


           
和昭16年(1941年)12月8日 
英領マレー半島侵攻
★米領真珠湾攻撃 英米蘭に日本宣戦布告
戦艦テネシー撃沈 戦艦メリーゴーランド 戦艦 ペンシルバニア撃沈 軽巡洋艦ヘレナ撃沈 軽巡洋艦 ホノルル撃沈 

           
昭和16年(1941年)12月10日
★マレー沖海戦
戦艦プリンス・オブ・ウェールズ撃沈 巡洋戦艦レパルス撃沈 

和昭16年(1941年)12月24日-翌年1月16日 
第二次長沙作戦 湖南省 長沙周辺 日本軍敗北
           
和昭16年(1941年)12月25日
英領香港島占領


和昭17年(1942年)1月2日 
マニラ無血占領
          
和昭17年(1942年)1月11日-3月9日
蘭印戦 
1月11日 クアラルンプール占領  タラカン島戦 セレベス島メナド上陸 

和昭17年(1942年)1月23日
トラックニューアイルランド島 ニューブリテン島(ラバウル) 上陸 連合艦隊機動部隊支援

和昭17年(1942年)1月24日
バリクパパン沖海戦 
日本軍の輸送船5沈没他損傷 連合軍は潜水艦大破 駆逐艦小破 南方初期海戦唯一の連合軍勝利。しかし、日本軍はバリクパパン製油施設占領。 戦死者8名  ボルネオ島の油田パリクパパン攻略を実行中の日本軍輸送船団と護衛の水雷戦隊 連合軍の駆逐艦 潜水艦が襲撃した海戦。日本輸送団被害 輸送船5沈没 哨戒艇1大破放棄 輸送船2損傷 米軍潜水艦1大破 駆逐艦1小破  しかし、日本軍の油田攻略は成功。   

和昭17年(1942年)1月24日
蒼龍 飛龍 の艦載機がアンポンを空襲。

和昭17年(1942年)1月27日
エンドウ沖海戦   英駆逐艦1撃沈

和昭17年(1942年)1月31日 
陸軍 ビルマ モールメン占領
           
和昭17年(1942年)2月4日
ジャワ沖海戦 米重巡ヒョウーストン中破

和昭17年(1942年)2月
日独伊新軍事協定調印   
米 シャーマン戦車 登場(スペックとして、強力であったが、土壌の悪さに度々動けなくなった。)


和昭17年(1942年)2月9日
セベレス島マカッサル上陸占領した。

和昭17年(1940年)2月10日
パンジェルマシン飛行場を占拠
           
和昭17年(1942年)2月15日

シンガポール攻略 イギリス無条件降伏

和昭17年(1942年)2月18日
バリ島攻撃作戦 バリ島沖海戦 4隻の日本軍艦で敵艦隊撃滅
           
和昭17年(1942年)2月19日 
オーストラリア北部ダーウィン空襲 赤城 加賀 蒼龍 飛龍 

和昭17年(1942年)2月19日-20日
バリ島沖海戦   
日駆逐艦1隻大破  米軽巡1隻撃沈 米駆逐艦1隻撃沈
和昭17年(1942年)2月20日 
ティモール島戦  豪軍 蘭軍 23日降伏


和昭17年(1942年)2月20日
ニューギニア沖海戦     一式陸攻でレキシントンに攻撃を掛けるが??至近弾一発だけで、一式陸攻は17機中15機喪失 飛行艇3隻喪失 偵察機1機喪失 
米軍ワイルドキャット2機撃墜。

和昭17年(1942年)2月27日―3月1日
スバラヤ沖海戦 日本軍の圧勝 連合軍 重巡1 軽巡2 駆逐艦5 撃沈

和昭17年(1942年)2月28日―3月1日
バタビア沖海戦 日本軍勝利  連合軍 重巡1 軽巡1 駆逐艦1 撃沈

和昭17年(1942年)3月1日 
ジャワ島上陸。
           
和昭17年(1942年)3月7日 ‐翌年1月23日
ニューギニア ポートモレスビー作戦   ビルマ ペケー占領

和昭17年(1942年)3月8日
陸軍 ビルマ ラングーンへ入場

和昭17年(1942年)3月10日
ジャワ島 バンドン要塞入城

和昭17年(1942年) 3月23日
アンダマン諸島攻略

和昭17年(1942年)3月26日 
セベレス島 南雲部隊出発 セイロン島へ向かう アフリカのドイツ軍と結合する為           
           
和昭17年(1942年)3月31日‐4月10日
クリスマス島占領。

和昭17年(1942年)4月5日―9日
セイロン沖海戦  コロンボ空爆 英海軍 軽空母ハーミーズ撃沈 重巡2 駆逐艦2 撃沈  インド制海権ほぼ制圧  シンガポールとラングーン間輸送可能に。

和昭17年(1942年)4月 
ラングーン飛行場建設  加藤隼戦闘隊

和昭17年(1942年)4月17日 
陸軍  ビルマ エナンジョン油田地帯占領
           
和昭17年(1942年)4月18日 
米 ホーネット エンタープライズからB-25爆撃機(ドゥーリリトル爆撃隊)による本土空襲。
                     
和昭17年(1942年)5月4日~8日
珊瑚海海戦       祥鳳沈没 レキシントン撃沈 翔鶴中破 瑞鶴航空戦力大破 ヨークタウン中破 

和昭17年(1942年)5月5日  
フィリピン最後の要塞コレヒドール島上陸 5月7日米軍無条件降伏 
           
和昭17年(1942年)6月5日 
ミッドウェー海戦 米軍勝利 ヨークタウン撃沈 日本軍 赤城 加賀 蒼龍 飛龍沈没




 
和昭17年(1942年)6月中旬
陸軍 ビルマから イギリス軍 中国軍掃討 援蒋ルート封鎖 ビルマ制圧
   
和昭17年(1942年)中頃 
米空軍英国内に配備。

和昭17年(1942に年)7月21日‐11月16日
ミューギニア島東部パプア半島 ポートモレスビー作戦(ココダ道の戦い。)
           
和昭17年(1942年)8月8日―9日
第一次ソロモン海海戦 日本軍勝利 米軍重巡 キャンベラ ヴィンセンス クインシー アストリア シカゴ 撃沈 日本軍 重巡 加古 沈没

           
和昭17年(1942年)8月24日―25日
第二次ソロモン海海戦   日本軍敗戦 空母龍驤沈没

           
和昭17年(1942年)8月31日
米空母サラトガ 伊26雷撃で損傷
           

           
和昭17年(1942年)8月7日
米海兵隊 ガダルカナル島侵攻          

和昭17年(1942年)8月19日連合軍のフランス・ディエップへの奇襲上陸作戦 連合軍惨敗
        
和昭17年(1942年)9月15日
米空母ワスプ 伊19雷撃 撃沈
          
           
           
和昭17年(1942年)10月26日
南太平洋海戦   ホーネット撃沈 エンタープライズ中破 航空機81機消失  翔鶴大破 瑞鳳中破 航空機92機消失 
           
和昭17年(1942年)11月8日 
アメリカ軍北アフリカ(アルジェリア)上陸 トーチ作戦

和昭17年(1942年)11月12日‐15日
第三次ソロモン海戦  戦艦比叡沈没 戦艦霧島沈没 重巡衣笠沈没
           軽巡アトランタ撃沈 軽巡ジュノー撃沈

和昭17年(1942年)11月16日‐翌年1月22日
ニューギニア島東部パプア半島 ブナ・ゴナ の戦い

           
和昭17年(1942年)12月18日
日本軍ニューギニア マダンとウェワクに上陸 フォン半島西側に到達

物語 陸海統合参謀本部シュミレーション 
1943年


和昭18年1月29日~30日
レンネル島沖海戦 米重巡1隻沈没
           
和昭18年(1943年)2月1日―7日 
ガダルカナル島撤退作戦 
           
和昭18年(1943年)3月2日
ビスマルク海海戦 駆逐艦4沈没
           
和昭18年(1943年)3月26日
アッツ島沖海戦(引き分け)

和昭18年(1943年)4月
い号作戦
           
和昭18年(1943年)4月7日―4月15日
フロリダ沖海戦 米駆逐艦1撃沈 コルベット艦1撃沈

和昭18年(1943年)4月18日 
山本五十六戦死
           
和昭18年(1943年)5月 
北アフリカ戦線連合軍勝利
コミンテルン 解散。
           
和昭18年(1943年)5月29日
アッツ島玉砕   此処から日本軍の玉砕が各地で始まる。
           
和昭18年(1943年)6月8
日戦艦陸奥自爆
           
和昭18年(1943年)7月6日
クラ湾夜襲 駆逐艦2喪失 米軽巡洋艦ヘレナ撃沈
           
和昭18年(1943年)7月12日
コロンバンガラ島沖海戦 軽巡1沈没 米軽巡3大破 米駆逐艦1沈没3大破 日本軍勝利
           
和昭18年(1943年)7月29日
キスカ島撤退

和昭18年(1943年)
ビルマ独立
           
和昭18年(1943年)8月6日
ベラ湾夜戦 駆逐艦3(萩風・嵐・江風)喪失

和昭18年9月
日本絶対防衛圏設定。
           
和昭18年(1943年)9月8日 
イタリア降伏
           
和昭18年(1943年)9月17日 
連合軍ラエ占領
           
和昭18年(1943年)10月6日
ベララベラ海戦 駆逐艦1喪失 米駆逐艦1沈没2大破
           
和昭18年(1943年)10月21日
学徒出陣

和昭18年(1943年)11月
ろ号作戦
           
和昭18年(1943年)11月1日~2日
ブーゲンビル島沖海戦 軽巡川内 駆逐艦初風 喪失

和昭18年(1943年)11月6日
大東和共同宣言  日本 支那 タイ 満州 フィリピン ビルマ 自由インド 7か国
           
和昭18年(1943年)11月21日
連合軍マキン島タワラ島上陸(11月23日日本軍全滅)
           
和昭18年(1943年)11月上旬
ギルバート諸島沖航空戦

和昭18年(1943年)11月22日―11月26日
カイロ会談 チャーチル ルーズベルト 蒋介石
           
和昭18年(1943年)11月23日
マキン・タワラ島玉砕

和昭18年(1943年)11月28-12月1日
テヘラン会談   スターリン チャーチル ルーズベルト
           
和昭18年(1943年)11月24日~25日
セント・ジョージ岬沖海戦 駆逐艦3沈没
           
和昭18年(1943年)12月5日 
マーシャル諸島沖航空戦      米空母エセックス級一隻中破。日本航空機57地上撃破

物語 陸海統合参謀本部シュミレーション
1944年


和昭19年(1944年)2月
連合軍 ドイツ空軍基地空爆開始6000機以上が最初の一週間で出撃 ドイツ空軍の三分の一以上を壊滅させる。連合軍は、西欧の制空権を獲得
           
和昭19年(1944年)2月6日
クェゼリン島日本軍玉砕。
           
和昭19年(1944年)2月22日
エニウェトク環礁日本軍玉砕
           
和昭19年(1944年)3月8日―7月4日
インパール作戦
           
和昭19年(1944年)5月25日
日本軍洛陽占領
和昭19年(1944年)6月6日
ノルマンディー上陸作戦 初日で上陸足固め完了。初日連合軍負傷者一万人 
           
和昭19年(1944年)6月15日
連合軍サイパン上陸。7月9日 
           
和昭19年(1944年)6月19日
マリアナ沖海戦
翔鶴 大鳳 喪失 日本の劣勢は決定的。
           
和昭19年(1944年)7月24日―8月1日
テニアンの闘い。   8月2日テニアン島玉成
           
和昭19年(1944年)8月11日
グアム島玉砕
           
和昭19年(1944年)9月15日ー11月27日
ペリリューの戦い
           
和昭19年(1944年)10月―翌8月 
連合軍フィリピン奪還戦闘
           
和昭19年(1944年)10月12日
台湾沖航空戦
           
和昭19年(1944年)10月20日
連合軍レイテ島上陸
          
和昭19年(1944年)10月23日
レイテ沖海戦 空母瑞鶴 瑞鳳 千歳 千代田 沈没

和昭19年(1944年)10月25日
エンガノ沖海戦
           
和昭19年(1944年)11月10日
日本軍桂林 柳洲占領
           
和昭19年(1944年)11月24日
マリアナ諸島より連合軍初日本本土空襲
           
和昭19年(1944年)11月29日
空母信濃沈没
           
和昭19年(1944年)12月10日 
日本軍 大陸打通作戦を完了
           
和昭19年(1944年)12月16日―翌1月25日 
アルデンヌの森の闘い 連合軍19000人死者
           
和昭19年(1944年)12月26日
ミンドロ島沖海戦 重巡足柄沈没

物語 陸海統合参謀本部シュミレーション
1945-


和昭20年(1945年)1月 
F・ラーズベルト大統領 四期目開始
米軍フィリピンルソン島上陸

            
和昭20年(1945年)2月19日―3月26日  
硫黄島の戦い
       3月 守備達玉砕
B29による本土空襲が始まる。
            
和昭20年(1945年)4月1日―6月22日沖縄戦闘            
航空特攻菊水一号作戦発動海軍残存艦隊水上特攻行う
                          
和昭20年(1945年)5月 独軍降伏
            
和昭20年(1945年)5月15日―16日 
ペナン沖海戦 重巡羽黒沈没
                         
和昭20年(1945年)6月 B29による地方への空襲激化。

和昭20年(1945年)7月 沿岸都市に対し艦砲射撃が行われる。

和昭20年(1945年)7月17日―8月2日 
ベルリン郊外ポツダムに於いて 英米ソの首脳に寄って戦後の処理について話し合われた。 ポツダム会談
ドルーマン ズダーリン ヂャーヂル(7月27日迄)

和昭20年(1945年)8月米軍核兵器の使用を初め 広島 長崎 博多 新潟  京都 静岡  名古屋 などに順次最低16個の原子爆弾投下し始める 

和昭20年(1945年)8月7日 ソ連が日本への侵攻開始

和昭20年(1945年)11月1日 オリンピック作戦(九州上陸作戦)開始 
ダウンフォール作戦完成の為に、九州に拠点を置くための侵攻作戦

和昭21年(1946年)3月1日  コロネット作戦開始(ダウンフォール作戦)
九十九里浜と湘南海岸から 上陸作戦 地方からの日本軍援軍を断ち!帝都東京を壊滅させる。

和昭21年(1946年)10月1日  大日本帝国完全無条件降伏 


和昭28年(1953年)3月5日 ズダーリン死去